一章2
コーヒーを飲み干すと、俺達は再び通りに出た。
家まではあとちょっと、とアイレスが言うので、荷物は重いが我慢して歩いた。
今まで歩いた大通りを外れてすぐの五世帯が並ぶメゾネット式のアパートの左端、ここがエモン叔父さんとアイレスの暮らしている住まいだ。七年前となんら変わっていない。
アイレスが自宅のドアを開ける。
七年振りの叔父と姪の家、長い期間玄関を潜っていないと近親である甥の俺でも少しばかり遠慮がある。
「何してるのよ、今日からガーゼルもここで暮らすんだからもじもじすることないじゃない。早く入りなさいよ」
「前に来たの七年前だぞ。自分の家みたいに入るのは抵抗があるんだ」
はあ、と彼女は呆れたように息を吐いて、
「気にしなくてもいいこと気にするのね。あたしが入っていいって言ってるんだから入っていいの」
それでもいきなり入るのは常識として間違ってる。
はいと言わない俺をじれったそうに見つめて、突然腕を掴む。
「いいから入る!」
強引に連れ込まれた。
家の中は非の打ちどころなく清潔にされていて、キッチンや床にシミひとつ見当たらない。俺の実家は鼻が曲がるような家畜の匂いが染みついていたから、よけいにそう感じた。
つい感嘆しているとまた腕を掴まれる。
「あんたは二階!」
アイレスが憮然として指さしている方を見ると、確かに階段がある。
見ただけで傾斜がきついと悟る。
鞄を両手で持ち階段に足をかける。上るだけでけっこう体力を使いそう。
「なあ、アイレス」
助力を頼むため俺はアイレスに目を遣った。
「何よ」
目を細くし睨み返してくる。
「二階まで運ぶの手伝ってくれ」
「嫌だ、男なら鞄一個くらい自力で運びなさいよ」
薄情な。
「不満でもあるの?」
「あ、いや」
刑務所で囚人の働きを監視する人みたいな目で見られては、異議など述べようものなら絞首台だ。
心ならずも重い鞄を抱えて階段を上った。
アイレスはその間じっと俺を観察し、上りきると笑顔を浮かべ、
「夕食になったら呼ぶからねぇー」
人が変わったみたいに愉快気に手を振り、リビングに消えていった。
ドアを開け鞄を降ろし、これから生活する部屋を見回した。
俺一人が使うだけで手狭になる一人部屋で、家具は窓際のベッドとタンスくらいのものしかなく、どことなく寂しい印象を受ける。
事前に掃除しておいてくれたのだろうメイキングされたベットに腰掛け、鞄を開け実家から持ってきた衣服を取り出しベッド上に並べていく。
必要なものは現地で買ってそろえてね、と母に言われているので服しか持ってきていない。
すべての服を取り出し終えると、空になるはずの鞄の底に見覚えない麻袋を見つける。
片手で持てるくらいのそれを手に取ると案外重みがあり、中身が硬貨だとすぐにわかった。口を広げて確認すると、想像通りに十数枚の硬貨とその上に折りたたまれた紙片が封入されていた。
露骨に意味ありげな紙片を広げる。紙には母の柔らかな字でこう書かれてあった。
『ガーゼル、お母さんは心配です。親元を離れて暮らすことに慣れていないので、人混みで迷子になっていないかとか、悪い女に引っ掛けられてぼったくり請求を迫られていないかとか、エモン兄さんのへそくりを横領していないかとか、美女を侍らせハーレムを築いて豪遊していないかとか、ホームシックで母を訪ねるため船に乗るが行き先を間違え明後日の方へ旅出していないかとか、森のアライグマを助け愛犬と一緒にのんびり別の田舎で暮らしていないかとか、空に浮かぶ城を目指して青い石を頼りに天空へ飛び立っていないかとか、他にもいろいろなケースが思い浮かんで心配です。お金を入れておいたので自由に使っていいからね。 母より』
紙片を見つめたまま俺は言葉を失った。
破り割いて窓から投げ捨てたい、と俺は思った。
でも案じているのがしみじみわかるので、実行はしなかった。
紙片を畳み直し、俺はタンスに服を移すことにした。
タンスは三段、それほど多くは仕舞えないだろうが持ってきた分はなんとかなりそう。
冬物の厚い生地の服から入れていった。
「よし」
服を全部仕舞い終えて俺はタンスの上の縁をおつかれ、と言うように叩いた。
こうして見るとこのタンス、案外品がある。エモン叔父さんの趣味かな。
「そういえば……」
そこでふと、この部屋の前の使用者が誰なのか気になった。次はじっくり部屋を見回してみた。
家具はカントリー調で統一され配置にゆとりを感じ、採光窓の光の入り方も絶妙でぱっと見では寂しく感じたが、長く眺めているとセンスの良さが感じられる。
「俺、こんないい部屋使っちゃっていいのかな?」
急に自分が場違いに思えてきた。
粗末な服を着ているのが恥ずかしくなってきた。これが文明の差か。
「ガーゼル、降りてきなさいよ!」
不意にドアの外の階段の下からアイレスのよく通る声が聞こえた。
降りてきなさい、とだけ言われても戸惑う。
「何か用か?」
アイレスに聞こえるよう大きな声で訊き返す。
「夕食よ、夕食。あたしはもう待ちかねてるの」
それを俺に吐かれても困る。とはいえこれ以上アイレスの機嫌を損ねると面倒なので部屋の整理を中断し俺は階下へ降りた。
明るい照明の光が廊下へと伸びているリビングルームの入り口で、アイレスが立っていた。
「ジーナがせっかくあんたのためにご馳走を作ってくれたんだから。冷めちゃう前に食べたいじゃない」
「ジーナ?」
聞き覚えのない人の名前に俺は首を傾げる。
あー、と思い出したようにアイレスが呻く。
「ガーゼルは知らないよね、あたしの幼馴染」
幼馴染。確かに七年前に紹介された覚えはない。
「ほら、そこでお皿並べてる」
アイレスが指差した方を見ると、四人掛けのダイニングテーブルに湯気の立つ料理を盛りつけた皿を置いている女性の姿がある。亜麻色のウェーブした髪を長く背中へ垂らしている。俺からは背中側しか見えない。
その女性が振り向いた。
俺は息を呑んだ。
「あなたがガーゼルさんですか?」
彼女が微笑して訊いてきた。
背中側からでは気が付かなかったがすごく容姿が整っていてスタイルも良好、初対面では数秒は目が離せないであろう。
__実を言うとゆとりのあるブラウスを押し上げる胸が尋常でなく俺の目を奪った。
「どうかしました?」
何も言わない俺を不思議そうに見つめる。
見惚れていた俺は慌てて会釈して名乗る。
「ど、どうもガーゼル・シルバです。きょ、今日からお世話になります」
こんな挨拶で合っているのかわからないが、ジーナとアイレスが呼んでいた女性は丁寧にお辞儀する。
「ジルナ・クロースです。アイちゃんと仲良くさせてもらっています」
少し堅苦しいがお互い初対面だしこんなものか。というかアイちゃんってアイレスはそんな呼ばれ方されてるのか。意外だ。
そんなことしょうもないことを考えていると、突然アイレスが割り込んでくる。じれったそうに俺とジルナを交互に見る。
「なんか堅苦しい」
どうやら俺と同じ考えだったらしい。
「ガーゼルはこれから当分ここに住むんだから、ジーナもくだけた態度で接していいわよ」
「でも初めて会ったわけだし……」
「気にかけちゃダメ。ガーゼルがさっきあんたの胸をじろっと見てたわよ。猛獣みたいな眼光で。いつ襲われるかわかったもんじゃないわよ」
襲わねえよ。しかも『じろっと見てた』って誇張されてる。じろっとは見てないちろっと見ただけだ。
「そんなこと言ったら、ガーゼルさんが可哀そうです」
ジルナさんが俺を庇ってくれる。ありがとう。
アイレスは幼馴染にぐっと詰め寄り、忠告するように人差し指を立てて、
「もう少し人を疑うことをしなさいジーナ。世の中の表裏は逆転してるのよ」
表裏一体ではないのか。
「わ、わかったから。料理が冷めちゃう」
おどおどジルナさんが指摘。
アイレスがあっ、と思い出したような声を出す。
「そうだったわ、早く食事にしましょう」
そう言うと無言でアイレスは席についた。
「ガーゼルさんもどうぞ座ってください」
アイレスの隣の席に座ったジルナさんが、二人の向かいの席を俺に促す。
「あ、どうも」
俺はその席に腰を据えた。
アイレスとジルナさんは二人とも料理に手をつけず、自然と沈黙が訪れた。
二人が食べ始めないと俺まで手をつけられない。
しばし、誰も身じろぎしないでいると、
「……あのさ」
アイレスが唐突に沈黙を破った。やっとの思いで切り出したのか、やけに緊張した弱い声だった。
「ガーゼルに……話さないといけないことがあるの」
そう言って真剣な眼差しでアイレスが俺を見る。
話さないといけないこと? この家でのルールについてか?
俺は無言で先を勧める。
アイレスがゆっくり言葉を発する。
「あたしのお父さんについてなんだけど」
「叔父さんがどうかしたのか?」
訊いたが答えずアイレスは押し黙った。
「病気とか?」
気が急いてきて俺は、充分にあり得そうなこと言って探る。
アイレスは違うと首を振る。じゃあなんなんだよ?
「……かまってくれないの」
ぱっと笑顔でわざとらしく唇を尖らせた。
俺は拍子抜けして目を丸くする。
「今、なんと?」
聞き取れなかったわけではないが、間違いのないよう訊き返す。
「だから、かまってくれないんだって」
「……話さないといけないことって、それ?」
アイレスは平然と頷いた。
俺は気が抜けてぽかんと、アイレスの顔を見つめる。
そして話を打ち切るようにアイレスが手を叩き、
「それじゃ、食事としましょう」
いそいそと目の前の料理を頬張り出す。
その隣でジーナさんが苦笑いを俺に向けて言った。
「ごめんなさい、アイちゃんが紛らわしいこと言っちゃって」
いいえ、謝るべきはアイレスです。
俺とジーナさんはぎこちなく笑い合い、どちらからともなく夕食に手を伸ばした。
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