第8話
目覚める。何も夢は見なかった。暗闇の中だが多分昼なのだろう。遠くから聞こえる車の音は多いし、階下からは母のせわしない足音が聞こえる。雑音。意識の外に追いやり、手の中にある感触を確認する。宇宙人――彼らと僕をつなぐ唯一の代物。空色のテレポーターの代替品。あれからどれだけ時間が経過しただろうか。部屋の中にその答えを見出すことはできない。目張りをした雨戸とカーテンを閉めた部屋は暗いがそれでも真闇とは言えない。目を凝らすと部屋の大まかな状況は見て取れる。クローゼットに本棚に机。それらはすべて空だ。制服も教科書も鞄も隠していた小説も全部燃やした。彼らの思念波が通じやすくなるだろうと思ったからだ。暗いほうが僕自身の感度もよくなるだろうしこの世界につなぎ止めるものがないほうがいいに決まっている。僕はツキのところに行くのだ。ふと階段を上ってくる音に気がついた。なるべく忍ばせようとしている足音はドアの前で止まり今度は階段を下りていく。来るときより足取りは速い。きっかり五十数えてからベッドを降りてドアを開く。廊下にはお盆に乗せられた昼食があった。それを手に部屋に戻りすぐさまドアを閉める。閉じこもるようになってから最初は両親が僕を引っ張り出そうとするので苦労した。ツキが親にばれないように気にしていた気持ちが分かった。そのたびに暴れてやったら親も何も言わなくなったのだが。自分の首に包丁を突きつけてやったのが効いたのかもしれない。狂言なんかじゃない。もうこんな世界には未練がない。ツキのところに行けないのなら死んだほうがマシだ。食事をあらかた胃袋に入れ食器を廊下に戻して考えた。これだけ条件をそろえても彼らからのコンタクトはない。なぜだ。何かが違うのか。それは親の思念が阻害しているからではないか。
ああそうか。
なら答えは簡単だ。
僕は部屋に戻らずそのまま階段を下りる。体が重く感じる。手すりを握り直した。一階に行くと、台所で母親が目を丸くしてこちらを見ていた。おびえている。弱々しい。くだらない。なにも自分の首に包丁を当てる必要はなかった。苦笑しながら僕は玄関に降りる。別にあの人をどうこうしようとするわけじゃない。適当に靴を引っ掛けてドアを開けた。何も見えない。多すぎる光が暗闇になれきった僕の目を白く焼いた。目をしばたかせ景色が見えてくるようになったとき風が頬をなでる。僕は寝巻きのまま外に出てきたことに気づいた。コートを取りに戻ろうとしたが全部燃やしてしまったことを思い出した。構いやしない。作業中のツキだって半そでのシャツでいたじゃないか。空は一点の曇りもなかった。太陽が冬のものとは思えないほど輝いている。空気は鋭利な冷気を帯びていたが陽光はぬるく肌にまとわりつく。かつて一年半もの間通いつづけた道をたどる。川の脇の道を通り住宅街を抜けると坂の上に高校の校舎が見える。最後に通ったときと変わった様子はあまりなかった。ときどき人とすれ違うがそのたびに奇異と嫌悪の視線を向けてくる。寝巻き姿は見ているほうにも寒々しいようだ。僕もツキに対してそんな視線を送ってしまったのかもしれない。そう考えると人々の視線も心地よいものに変わった。僕がツキに近づいたという証明だから。「おまえ、ミツルじゃねえか?」 校門に入ったところで声をかけられた。一人の男子生徒が、僕のほうに駆け寄ってくる。「二ヶ月も、どうしてたんだよ」 ――誰だっけ、こいつ? 構わず先に行こうとしたが腕をつかまれる。「待てよ、どこ行くんだよ」邪魔だな。ああ思い出したこいつは寺脇だ。僕をからかって笑っている顔しか覚えてなかったので気がつかなかった。今は哀れむような視線で僕を見ている。「離せ。僕はツキのところに行くんだ」つかんだ手を振り払おうとするがうまくいかない。「なに言ってんだ、おまえ」一瞬でも説明しようとした自分を愚かしく思う。そんなことこいつに理解できるわけがない。それにあの場所についてこられても困る。包丁を持ってこなかったことを後悔した。「おまえ、本当にどうしたんだよ? ひどい顔してるぞ」「顔?」訊き返す僕に鏡を差し出す。制服用のブラシとセットになっている手鏡だ。狭い鏡の中に見知らぬ男がいた。そいつは、肉の多い顔に、ぼさぼさの頭をしてカビのような不精ひげを生やしていた。やにのたまった目は純血して濁っていて、そのくせぎらぎらとしている。肌は死人のように白いのに、薄くすすけていて、地黒にも見える。ブタに似ていた。「――え……?」そいつは唇を震わせて、何かを言おうとしている。だが、人間の言葉なんか最初から話せないようにも見える。半開きになった口の中には、便器の染みと同じ色をした歯が見えた。
「――っ」
吐いた。
胃の中身をアスファルトに撒き散らしながら、僕はツキの顔を思い浮かべる。だが鏡の中のブタの顔が頭から離れない。道路に震えながらゲロをしているブタの姿が鮮明に思い起こされる。僕は走り出した。いつの間にか寺脇の手は放されていた。気づいたら、物置の裏にいた。喉がめくれあがるような不快感がある。息が上がって死にそうだ。(――ブタが――)頭の中の誰かが、誰かのことを罵っている。ここなら誰も僕を傷つけないはずなのに。頭の中の誰かは、凶暴な言葉を吐きつづけている。違う。僕はあんなんじゃない。美しかったツキとともに彼らの輝く世界へ行くのだ。汚物にまみれた豚男が行ける場所じゃない。嘔吐感が何度もこみ上げてくるがなんとか飲み込む。飲み込んでまたぶり返してくる。そのとき視界の隅に何かが映った。近寄ってみると、それは犬の体だった。
『彼』だった。
そこは、『彼』がいつも座っていた場所だった。結局、こいつはここで、ずっとツキを待っていたのだろうか。
一向に動かない。
動くはずがない。
『彼』は、どこへ行ったのだろうか。
多分、ツキのところじゃないだろう。あそこには、行けない。ハエがたかりはじめた『彼』の体を見ながら、思った。『彼』は僕と同じ。そんなことを、前にツキに言われた気がする。
僕は物置の横にあったシャベルで、穴を掘った。
『彼』が寝そべる、すぐ横に。
冬の土は、予想以上に固かった。シャベルの先が跳ね返る。なんとか突き刺すが、そのたびに腕と肺が悲鳴をあげ、腰が折れそうになる。
真上にあったはずの日が雑木林に消えた頃になって、やっと人一人が横になれるくらいの大きさの穴を掘りおえる。少し深めなので、ブタだって埋められる。
そこに『彼』を横たえる。
再びシャベルを取り、盛り上げた土に突き刺し、崩し、『彼』の上にふりかける。掘るときよりも楽だったが、もう腕の感覚はなくなっていてたし、腰もどうにかなりそうだった。
埋葬しおえた頃には、辺りは暗くなりはじめていた。
『彼』が横たわっていた場所に座る。
僕はポケットにしまっておいたお守りを取り出す。
腕が馬鹿になって、震えているのがおかしかった。
お守りの結びを解いた。指がかじかんで言うことをきかなくなっていたが、なんとか歯で噛み切るようにして無理やり開けた。
中に何か入っている。
手紙だった。
整った明朝体で、最初は印字かと思った。だが、よく見ると手書きである。
空を仰ぐ。
雲が赤く染まっているが、手紙を読むだけの明かりはある。
手紙に目を落としながら、既視感を覚える。
いつかも、手紙を片手にこんな夕日の中で待ち続けていた気がする。
結局僕は、あのときからずっと動けないままだったのかもしれない。
ミツル君へ
これを読んでいるのは、いつなんだろうね。渡した次の日とかじゃない、と思いたい。せめて、私がいなくなってからじゃないと、かっこがつかないし。
さて、君が通信機を開くことになってくれて、私は嬉しい。心から、祝福するよ。
同時に、そんな君に私の真意を知ってもらいたい。私の居場所から抜け出した君に、ね。
君は、私の場所にいるべきじゃなかった。あそこは、私だけの場所。他の誰がいても、絶対に不幸になるだけなんだ。
だけど私は、それを知りつつも君がいつづけることを許してしまった。これは、私のわがままだ。
私は多分、寂しかったんだと思う。私の場所は、誰とも共有できないと知りつつも、それでも誰かを求めていた。だから君が来たときは、正直嬉しかったんだ。それが君にとって不幸なことだと思っても、喜ばずにはいられなかった。
それに君は、昔の私に似ていた。どこかに、自分がいるべき本当の居場所があるんじゃないかと夢を見ている。
そう、夢なんだ。頬をつねっても、痛くない。そんな場所、この世界のどこにも存在しない。
だから私は、私の場所を作った。だけど、君は見つけてしまったんだ。私の作った場所、君が望む場所に限りなく近い場所を。
ずるいんだ、君は。私はそれを作るのにそれなりのコストをかけたのに、突然やってきた君はその場所に居座ろうとした。否定はさせない。君は、何のリスクも背負っちゃいない。それに気づいたときは、腹が立った。嬉しさなんてどっかにいっちゃうほど。
だから、私は君にいじわるをした。つまり、通信機。結果として今の、これを読んでいる君は、そのいじわるを乗り越えたんだろうけど。
ぞっとしたかな。なら、確信犯としては大いに満足。
私は、あえて君に居場所を残した。もしも私がなくなった後も、君がそこにすがりつづけた場合、君の人生は狂ってしまったと思う。
でも、それは当然払うべき代価なんだ。だから、私は謝らない。まあ、君がこれを読んでいるなら、私が気を咎める必要はないんだけどね。
さて。私もすっきりしたし、これ以上伝えることはないね。多分、これから何をするか、君は分かってるんじゃないかな。だから、何を言おうとおせっかいにしかならないしね。
じゃ。私はオリオンのほうに行く準備があるから、そろそろお別れ。歯ブラシ、買いに行かないといけないんだ。
ツキ
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