第5話

 白い息を吐きながら、一気に墓地を突っ切る。夕刻の墓地はおどろおどろしいが、早朝の今はどちらかというと幽玄という言葉がふさわしい。散りつつある闇の中で聞こえるのは、僕の息遣いだけだ。

 コンクリートの壁によじ登る。空を見ると、左側は白みはじめているものの、右の雑木林の上を仰げばまだ月が見えた。

 一息に乗り越え、夜の暗さが逃げ込んだ校舎の横を足早に抜ける。霜柱をつぶす感触が足に小気味よい。


 ツキとペンキを買いに行ってから三日が経った。相変わらず、僕は彼女の作業を見ていることしか許されなかったが、それでも毎日物置の裏に行っている。言葉を交わすことは少なく、ほとんどの時間は本当に見ているだけだった。だが、鈍色の塊に色が塗られていく過程を目にすることは、それだけでも楽しい。


 ツキという魔術師によって、予感という命が鉄に吹き込まれていく。

 そう、予感である。目の前でテレポーターが完成に近づくにつれ、僕の中の予感は大きくなっていく。歯の裏が、うずく感じ。これを感じたのは、小学生の時分に、子供だけで祭に行ったとき以来だ。


 プレハブ小屋と雑木林の間のわずかな隙間を抜け、裏側に出る。

 そこには、当然ようにツキがいた。ボルトをつけていたときの服装にエプロンをかけた姿で、ペンキの缶と空色に染まったはけを握っている。呼吸するだけで鼻が痛くなる冷気の中で、半そでである。

 小屋の壁には、彼女が家から持ってきた豆電球が引っかかっていた。小学校の理科の実験で使うようなタイプで、電球のソケットから伸びた二本の導線の端は、単一乾電池の両極にセロテープで貼り付けられていた。光自体は頼りないが、ペンキを塗るだけなので苦にしている様子はない。


 彼女の姿を頭からつま先まで、まじまじと見つめてしまった。

 ツキはそんな僕の様子に、首をかしげる。

 首を傾げたいのはこっちだ。

「……早いね」

 まだ、校門も開いていない時間である。今日はツキよりも早く来たつもりだった。だが、彼女はいつものように作業をしていたのだ。


「――本当に家に帰ってるの?」

「ん? 帰ってるけど……」

 そこでいったん切って、珍しく彼女から言葉をつなげた。

「本当は泊まり込んでやりたいんだけど、家族が心配するから」

 僕の思考を読んだかのような発言に、内心で狼狽した。


 視線を逃がした先――ツキの後ろで、影が動くのが見えた。

 それは水の中を動くような緩慢とした動作でわずかに移動し、座り込んだようだ。


「『彼』、また来てるんだ」

 ツキは、視線をテレポーターに向けたままうなずいた。その手は、先から少しも動いていない。左手のペンキの缶は地面に置かれ、今は彼女のあごに当てられている。

 配色はひとつだけにもかかわらず、ときどき彼女はなにかを迷っていた。色の濃淡か、塗りの手順か、それとも彼女の感性でしか捉えられない選択肢があるのか――いちいち訊くのも気が咎めるので、僕にはわからない。


 また『彼』の影が動いた気がした。身をよじったのだろうか。

 空が白み始める。遅い日の出のはこんな茂みの中には届ききらないが、それでも『彼』の姿は形にしてくれた。

 無駄に長い毛は縮れながら絡まって、泥や埃と一緒に葉や枝も巻き込ませている。暗がりにその姿を初見したら、多分逃げ出しただろう。


 豆電球の光が、黒い瞳に反射している。ぼさぼさした体毛のせいで体がふくれあがって見えるため、その目はゴミと見誤るほど小さい。

 片隅に座り、つぶらな瞳でじっと僕らを見つめている――『彼』はそんな犬だった。


 最初に出会ったのは日曜日だ。ツキの話によると、ときどきやってきて、座っているらしい。

 そのときの昼、僕がコンビニ弁当のからあげをあげようとしたら、ツキに止められた。


『盲目的に施しを与えることは、彼を侮辱することになる』


 犬を『彼』と称するのが、いかにもツキらしくておかしかった。

 とにかく、ツキは『彼』に一切関与しなかった。『彼』もまた、そこにいてツキを見ているだけ。寄ってきたり、鳴いたりしない。

 えてして学校には野良の犬や猫が集まるが、それは生徒が餌を与えるからである。

 だが、ツキは『彼』に対してそれをしない。


「なんで『彼』は、ここに来るんだろう」

 ツキはこちらに一瞬だけ目をやり、背を向けテレポーターに向き直る。影になって見えなかったが、なんとなく笑った気がした。

 迷いから抜けたのか、はけを取りペンキ塗りを再開する。


「それは、ミツル君のほうが知ってるんじゃないの」

「え?」


 僕は『彼』のほうを見る。

 じっと、塗りつづけるツキの様子を凝視している。

 彼女の皮肉だと気づいた。

 そして、事実なので反論できない。

 ツキにとって、自分にすりよってくる僕も『彼』も同列なのだ。


「まあ、今日はこんなもんかな」

 髪を振りほどき、ツキがペンキの缶のふたを閉めたのは、豆電球を消してからしばらくの頃だった。腕時計で確認すると、予鈴の五分前。校門のほうからは、多くの人の気配がしていた。

 ツキは制服を着なおし、マフラーを巻いてコートを羽織る。半そでで数時間も作業をしているくせに、登下校時の防寒対策は忘れていない。

 拾い上げたコートの下に、鞄と傘があった。


「あれ? 傘って……」

 空を見る。うっすらと雲がかかってはいるが、降りそうな様子はない。

「降るよ」

 断言して、物置の横にあった青いビニールシートをテレポーターにかぶせはじめた。ところどころ、虫食いのような穴が開いているが、傘の代わりにはなるのだろう。

 僕も手伝おうとするが、やっぱり止められる。


「ミツル君は先に行ってて」

 少し迷ったが、彼女がいいというなら従うしかない。仕方なく、言われるままにその場を去る。

 物置の横に入る前に振り返ると、ツキは石でシートを押さえていた。『彼』はやはり、座ってその様子を見つめている。


 テスト中にも思い出すたびに空を見るが、そのたびに黒くなっていくのが分かった。

 ホームルームが終わる頃には、ついに降りはじめてしまった。すぐに窓の外が白くなる。ガラスはすべて閉まっているのに、雨粒がアスファルトを打ちつける音が響いてくる。

 思い出してツキの姿を探すが、窓の外を物憂げに見つめる生徒たちの中にはいなかった。


 教室を出た僕は廊下で外を確認するが、下校する生徒の姿はほとんど見えない。

 昇降口に行くと、多くの生徒が立ち往生を余儀なくされていた。中には傘を持った者もいるが、みな一同に外をにらみつけている。軒先の一歩先は、落ちる水滴で煙っている。何人か、やけっぱちになって鞄を傘代わりに走っていく人がいるが、傘を差した人も同じように走っていた。雷が鳴らないのが不思議なほどである。

 人のざわめきがうるさいが、雨のそれはさらに上回っていた。

 一通り、生徒たちをを見回すが、ツキの姿は見えない。


 僕は意を決して、折り畳み傘を取りだし、季節はずれの豪雨の中に乗り出した。

 雨の重さというものを、初めて感じた。両手でしっかりと柄をつかみ、低く差す。

 小またで進むが、三歩目には靴の中に水の冷たさを感じるようになってしまった。

 いつもの三倍以上の時間をかけて、僕は物置のところまでたどり着いた。土が剥き出しの地面は、ちょっとした沼になっていて、制服のズボンは泥がはねて重くなってしまっている。

 傘が木に引っかからないよう注意しながら物置の裏を抜ける。


 ツキは、いた。

 雨の白い景色の中、傘は差しておらず、ずぶ濡れになっていた。長い髪は暗い色に変わったコートに張り付き、まっすぐに垂れている。

「ツキ!」

 叩きつける音に負けじと、声を張り上げる。すると、彼女はゆっくりと振り向いた。

 その動きは、ひどく緩慢で、僕の脳裏に幽鬼という言葉がよぎった。

 だが、額に張り付いた髪の下には、ツキの無表情が相変わらず存在していたので、少しだけ安心する。そしてそれ以上に、不安になる。


 彼女の傘は、足元に落ちていた。

 いや、落ちていたのではない。斜めにした傘の下には、『彼』が座っていた。


「この雨じゃ、今日は無理だね」

 『彼』のことを尋ねる前に、ツキは僕の横をすり抜け立ち去ろうとする。


「待って」

 雨のせいだろうか。ツキの姿が小さく見えた。

 物置の表に出たツキを追いかけ、彼女の上に傘を差し出す。


「もう、傘なんて意味ないよ」

 振り返らずに、彼女は進みつづける。

 それでも僕は傘を戻さない。あとを追いかけつづける。

 それ以上拒むでもなく、かといって受け入れるでもなく、そのまま歩きつづけた。僕らはそのまま、無言で校門を抜ける。白くがっちりした石柱を見ながら、二人で正式な道から出たのは、これが初めてであることに気づいた。


 通学路の歩道には誰もいなかった。頻繁に通る自動車が水をはねるが、それを防ぐほどの、そして構っているような余裕もなかった。

 彼女に尋ねたいことが山ほどあった。だが、雨音がそれをためらわせる。大きな声で長々と尋ねるのは、場にそぐわない気がしたのだ。


「なんで、あげたの?」

 結局、それだけだった。


「私の、わがまま」

 答えは、簡潔だ。


 ツキの声は、不思議とよく通る。斜め前を行く彼女の顔は見えないが、多分表情は変わっていない。

 それっきり、僕たちは言葉を交わすことはなかった。

 半端に傘からはみ出している僕も、ほとんどずぶ濡れ状態になっていた。それでも、半ば意地で差し出しつづけていた。


 唐突に、ツキが立ち止まり、振り返る。

「ここまででいいよ」

「でも……」

 言いかけて、気がついた。坂を降りたところの十字路。右にはコンビニがある。ここは、いつも彼女と分かれている場所だ。


 ツキは懐からなにかを取り出した。

「これ、あげる」

 お守りだった。乾いた麻の粗い手触りが、湿った手の中に感じる。紫の地に、『交通安全』の四文字が金色に縫い付けられていた。その上部には袋をとじる結び目があり、紐はそのまま伸びて輪になっている。

「これは?」


「通信機」


 雨の音は消えて、ツキの声しか聞こえなくなる。

「これをいつも持っていれば彼らとの通信が可能になる。もっとも、彼らがこちらの呼びかけに応えることはほとんどないけど。ただ、間違っても中は開けないで。たちまちその機能は失われてしまうから」

 僕は、半ば反射でうなずきながら、ゆっくりと言葉を消化した。つまりこれは、彼女が僕を認めてくれた、ということだろうか。

 だが、同時に思う。


「そんな大切なもの、いいの?」

「もともと非常回線用だし。どうせ彼らは何事もなく私の元にやってくる。だから、それを私は使わない。君にあげる」


 仮にも非常回線であるものを、簡単に人にあげていいのだろうか。だが、彼女が言うのだからいいのかもしれない。


「ありがとう、大切にする」

 だが、彼女の顔は何の変化も見せない。

「じゃあ」

 短い別れを告げ、ツキは雨の中に進み出て、去っていってしまった。


 僕の手の中には、あれだけ欲しがっていた「とっかかり」がある。

 しかし灰色の景色の中で小さくなるツキの後姿を見ていると、なぜか喜ぶのをためらってしまう。

 もう一度、左手の中にあるそれを見る。

 一見しただけなら、ただのお守りだ。

 ――だけど、これは彼らと僕をつなぐ、通信機なんだ。

 頭の中が真っ白になって、それをどうすればいいかわからなくなる。


 やっと、学ランの内ポケットにそれをしまうのだと、判断した。

 だが、ボタンを開くのにひどく苦労する。指が、動かない。

 仕方なく、ひっぱって無理やり外す。

 服の中のぬくもりを感じて、初めて、冬の雨に濡れた自分の手がひどく凍えていることを知った。


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