第4話


 ホームルームを終えると同時に、佐倉月は教室から出ていってしまった。その動きはすばやく、そして自然だ。土曜日ということもあり、午後の予定を打ち合わせることに忙しいクラスメイトたちは、少女が一人いなくなったことに誰一人として気づいていない。


 僕もその後を追って教室を出るが、もう彼女の姿は見えなくなっていた。

 急いで物置の裏に行くと、コートを着たツキがテレポーターを眺めていた。

 わずかにため息を漏らしたのが聞こえる。

 昨日塗られた空色だったものは、乾いてくすんだ青になっていた。ムラのあるその色は、テレポーターから流れた血にも見える。

 やはり、これじゃダメだ。

 今日はペンキを買いに、近くのホームセンターまで行くのだ。


 僕に気づいたツキが、こちらに振り向いた。

 目があるだけで、耳があるだけで――顔、という情報以外、一切の意味を含まない表情を存在させている。今日一日観察したが、教室にいた佐倉月とは、本当に別人だ。

 教室で笑う彼女は、掛け値なしにかわいい。それが仮の顔だとしてもだ。女は化けるというが、真の化粧とは、そういうものをいうのかもしれない。

「どうしたの?」

 音声という情報以外の一切を配した声で、尋ねてきた。

「――いや、別に」

 今まで、ここまで自然に女の人と話せたことなんてなかった。多分、彼女には「女性」という情報さえも欠落しているからだろう。

 彼女はまぎれもなく女性である。しかも、美人だ。だが、そう見えない。見せていない。見せる必要がないからだ。

「じゃ、行こう」

 そう言って、無駄のない足運びで歩きはじめた。


「あれ? どこ行くの?」

 彼女が向かったのは、校門ではなくその反対方向だ。体育館に背中を向け、特別棟の裏へと続く道を進んでいる。つまり、僕が来るはずのない彼女を待ちつづけた場所である。

 ツキから答えを受け取れないまま、僕らは突き当たりにたどり着いた。ツキは、壁を見つめている。あるいは、向こう側の墓地だろうか。


 胸ほどの高さの壁の上に、彼女は左手を置く。

「近道」

 そう言うと、手を軸にして壁を一気に飛び越える。長い髪とスカートがふわりと踊る。そのまま、ツキの頭は振りかえることなく奥に進んでいく。

 僕も慌てて、胸ほどのコンクリート壁に飛びつき、足をかける。彼女ほど身軽にはいかないが、よじ登るのはそれほど苦でもない。


 壁の向こう側に足を踏み入れるのは初めてだった。灰色の空の下に、灰色の墓石が並んでいる。どれもすす汚れていて、中にはひびが入っているものすらある。色が朽ちたお供え物の花が、寒気を誘った。


「ここ、いつも使ってるの?」

 先を行くツキに尋ねる。

「遅くなると、校門閉められちゃうから」

 こともなげにツキは答えた。

(そういう問題でもないと思うけどなぁ……)

 今にも崩れ落ちそうな山門をくぐり、僕らはやっと一般道に出る。下り坂の横には、いくつも二階建ての住居が連なっている。普通の住宅街のようだ。考えてみれば、校門の反対側がどうなっているか、知らなかった。


 うちの学校の生徒は見えない。なんとなく、ほっとした。ツキと一緒に歩いているところを見られるのは、何かとまずい気がしたのだ。

 と、そこで気づいた。

 これは、いわゆるデートというやつではないだろうか。


 ――何を考えてるんだか。

 僕はバカな考えを振り払った。

 人からどう見られようと、少なくとも僕らには関係ない。彼女は僕に興味はないのは明らかだし、僕も彼女を目的にしているわけじゃない。


 僕は少し足を速めて、彼女と並んだ。

 ツキのほうが、少しだけ僕より背が高い。結果、見上げる形になる。

「ペンキのほかに必要なものってある?」

「そうだね。強いて言えば……プルトニウムとか」

 僕は、言葉を失った。

「試運転がしたいの。それを思念エネルギーの代わりにすれば、理論上アメリカくらいにまでは行けるから」

「そう、なんだ」


 住宅街を抜け、大きな道に出た。

 軽くあたりを見まわすと、見覚えがある銀行と弁当屋が並んでいることに気づく。いつも塾に行くときに通る道だ。脇に道があることは知っていたが、まさか学校の裏に続いているとは思わなかった。


「お腹減らない?」

 ツキが訊いてきた。

 僕は一瞬、驚いた。彼女にも食事、さらにいえば空腹という概念があるのか。

 そして、頷く。すでに一時を回っている。土曜日は図書館で勉強するのが今までの僕の日課だったが、その際にはファーストフードで腹を満たしていた。

 だが、その店は学校を挟んで反対側。かなり遠い。


「あそこで食べよう」

 ツキが指し示した先には、古い木造のそば屋があった。黒い色の壁に格子戸がはめられている。入り口の横にはすだれがかかり、その下には小さな竹が生えていた。

 戸惑う僕をよそに、ツキはさっさとのれんをくぐってしまう。


 仕方なく、僕もその後を追った。

 そば屋に入るのなんて、何年ぶりだろうか。

 中は、そんなに広くはなかった。教室の半分ほどのスペースに、テーブル席が四つ、右側の座敷席に大き目の机が二つ――十六人は一度に入れる大きさだ。テーブル席には主婦が二人、座敷席にはサラリーマン風の客が三人座っている。


 ツキは、壁際のテーブル席に座る。僕も続き、彼女と向かい合う形に座った。すぐに店員らしいおばさんが、お茶を持ってきてくれた。

 琴の音色が、店の中に流れていた。サクラサクラ。音楽にうとい僕でも、これは分かる。

 いすやテーブルは木製で、磨かれた深い色が出ている。ヒノキだろうか。木も家具にも詳しくないが、なんとなく高級品のような気がした。壁や、そこに掛かっている品書きにも同じ色の木が使われている。多分、こだわっているのだろう。


 お茶をすすりながら手元のメニューを見るツキは、統一された雰囲気の中でも違和感を起こさせることなく、むしろそれをかもし出すのに一役買っているような気すら思わせる。


「ここ、よく来るの?」

「初めて」


 ページをめくりながら、何を選ぶか決めている。

 淡々と文字を追う視線から、何を考えているか知ることはできなかった。

 僕もお茶に口をつける。

 ――熱い。

 あきらめてテーブルに戻す。冷めるまで待とう。


 そこで、何を注文するか決めなくてはいけないことに気づいて、ようやくメニューを手にした。

 だが、ファミレスやファーストフードのそれとは違い、写真がない。文字の黒い筆跡だけが、白い紙面に並んでいる。

 ――もりそばとざるそばって、何が違うんだっけ?


「ご注文は決まりましたか?」

 お茶をくれた人と同じ店員が、席の横に現れた。僕が困惑している隙に、

「ざる」

 ツキが頼んでしまう。

 そして、店員の視線がこちらに向く。


「えっと……」


 もはや文字でなく、数字のほうを見ることにした。一番安いのは……もりそばだ。だけど、一番安いものを選ぶのも、貧乏くさいようでためらわれる。

 すぐ横には、ツキが頼んだざるそばがあることに気づいた。


「――僕も、ざるそばで」

 結局、同じものを頼んでしまう。おそるおそるツキのほうを盗み見るが、特に気にした様子はない。店員を頬杖をつきながら見上げている。

 注文を復唱して、店員は店の奥に引っ込んだ。

 僕は大きくため息をついた。なんだか、無駄に緊張している気がする。


「やっぱり、ノリがないと気分が出ないよね」


 ツキが意味不明なことを言った。

 なんと答えていいか戸惑ってしまうと、沈黙が訪れた。

 ますます声をかけづらくなる。もっとも、かける言葉も思いつかないのだが。

 ツキを見ると、頬杖をついたまま今度は店内を見回していた。いつもの無表情だが、今のそれは「退屈させている」というメッセージにも見えた。

 彼女に限って、僕に何かを期待するなんてことはないだろうが、僕のほうが耐えられない。


「……そういえばさ……今度のテスト、どう?」

 ひねり出した話題がそれか。なにが「そういえば」だ。

「今回は英語の範囲が広いから大変だよね」

 漂わせていたツキの視線が、こっちに向かってくる。


「――そうなの?」

「そうなのって……89ページから108ページ、おまけにテキストからも出されるし」

「よく覚えてるんだね。私なんて、英語がいつなかも知らないのに」


 僕は言葉を失った。日曜を挟んで、月曜日からテスト期間に入るが、英語はその初日、一時間目なのだ。

 ツキは珍しく笑顔になっていた。

「でも、テスト期間中は学校も早く終わるから、作業がはかどるね」

 彼女のことを呑気だと思った。

 だが、本当に呑気なのはどっちだろうか。

 テストとテレポーター、僕にとって大切なのはどっちなのだろうか。

 当然、テレポーターだ。宇宙人の世界に地球の一地方の学校の成績など何の意味もないだろう。

 だが、テストの成績を落とせば、母はヒステリーを起こすだろう。すでに、小説を捨てられているのだ。次はどうなることか。


 ためらいつつも、声をかける。

「……ねえ」

「うん?」


 ――テスト期間中は、作るのやめないか?


 それを言ったら彼女は軽蔑のまなざしを向けるだろうか。

 いや、彼女は軽蔑しない。ただ無感情に、拒絶するだけだ。


 言葉を続けられずにいると、店員が二人分のそばを持ってきた。

「はい、お待ちどさん」

 差し出されたそばの上には、刻みのりが振り掛けられていた。

 ツキはまずツユをそのまま口をつけ、口に含む。「うん」と一言。割り箸を手に取り、ネギとワサビをツユにいれて、軽くかき混ぜる。ひとつかみ、そばを取って、半分ほどツユにひたし、一気に吸い上げた。

 歯ごたえすら感じさせる鋭い音。それが、麺を吸ったときのものだと気づくのには、しばらくかかった。

「結構おいしい」

 二口目を取ろうとしたところで、視線がこちらに向いた。

「食べないの?」


 声をかけられて、彼女の洗練された食べっぷりに見入っていたことに気付いた。

 慌てて割り箸を割る。失敗して、真ん中から割れずに偏ってしまった。

 彼女に倣い、ネギとワサビを少しだけツユに入れる。

 たっぷりツユにつけたそばを食べてみるが、味なんかわからなくなっていた。

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