第3話

 僕は教室に向かっていた。廊下を歩く僕を、次々と生徒たちが追いぬいていく。

 ほどなく、教室が見えてきた。その引き戸をくぐるのは、なんとなく家の玄関を開くときの気持ちと似ている。


 予鈴前の教室は、独特の喧騒に包まれていた。昨日のテレビの内容、今日の教科の愚痴、倦怠を共有する者たちの、たわいない会話だ。

 窓際の席の後ろから三番目の席まで、最短距離を移動した。

 席について鞄から教科書を取るまもなく、三人の男子が机を取り囲んできた。笑顔が妙にわざとらしい。


「よう、ミツルちゃん。昨日は残念だったナァ」

 真ん中の男――寺脇が言ってきた。僕も彼らに倣い、笑顔を浮かべる。多分、思っている以上にぎこちないものになったと思う。


「……あの手紙のこと?」

 三人は顔を見合わせて笑った。僕も笑う。


「お前もバカだよなぁ。いまどきあんなイタズラに引っかかるやついねえぞ」

 彼らは笑う。僕も笑う。


「でもまあ、俺たちのおかげで君も淡いセンチメンタルな経験をすることができたんだ。感謝したまえ!」

 僕は笑いつづける。笑うことを、演じる。


 彼らは、僕が笑うことを望んでいる。だから、それを演じる。滑稽なピエロ、それが僕の役割なのだ。

 それは、いつからだったろう。寺脇とは去年からの付き合いだが、最初はそんなことはなかった気がする。いつの間にか、そして自然に、僕にその役が割り振られた。そしてそれは、学年が変わってからも続いた。それだけだ。


 僕は横目で、佐倉月の姿を探した。教卓から二つ前の席――ちょうど寺脇の横から、彼女の姿が見えた。

 佐倉月という女子は、いすに横に座り、背もたれに寄りかかりながら後ろの席の女子と話している。

 笑っている。

 彼女だけではない。教室は、笑いに包まれている。

 だから、僕も笑った。

 黄昏時に出会った少女の笑顔は、もう思い出せなくなっていた。



 昇降口を出た僕は校舎を右に回りこんで、グラウンド側に出た。そのまま、夕日が落ちる方向に向かって歩く。

 テストが近いので、今日から部活は休みになっている。いつもならサッカー部が陣取っているグラウンドは、広く見えた。

 そのわきを抜け、体育館と校舎との渡り廊下を越え、特別棟の奥を右に折れる。

 深い緑色をした雑木林と、赤色に染まった特別棟の間の道は、来る者の進入を拒んでいるかのように暗い。


 ――竜の住まう洞窟だ。


(……バカなことを)


 本当に、バカだ。


 雑木林にめり込むように立っているプレハブ小屋を見ながら思う。

 木島充、校門はここじゃない。さっさと戻るんだ。今日は塾があるじゃないか。こんなところで油を売っている暇なんかない。

 そして僕は、足を踏み出す。

 暗がりの道のほうへ。


 ――確認するだけだ。昨日のが幻だったかどうか。それから、帰ればいい。


 そう自分に言い聞かせて、霜が残る土を踏み進めた。

 ゆっくりと物置に近づくが、どうもおかしい。ボルトを締める金属音が、今日は聞こえない。

 物置の横に取りついて、聞き耳を立ててみる。やっぱり、人のいる気配がない。

 覗きこもうとして、物置の裏に顔を出すと――


「何してるの?」


 声は後ろから来た。

 尻餅をつくのを、何とかこらえる。

 振りかえると、月――いや、ツキが立っていた。白いシャツ姿で、長い髪をスカーフでまとめている――昨日と同じ格好だ。


 僕は必死になって言葉をひねり出そうとする。だが、心音が耳障りで、何を言えばいいかまったく判断がつかなくなってしまった。


「どいて」

「え、あ……うん」


 身をよじらして道を開けると、ツキは物置の裏に回り、例のテレポーターの前に陣取った。水音に気づいて彼女の姿を見なおすと、赤色の小さな水入れが右手にぶら下げられていた。

 それには見覚えがある。たしか、小学校のときに使った水彩画セットの水入れだ。筆についた絵の具を薄めたり、洗い落とすのに使ったりする。


「あ」

 何かに気づいたらしい。ツキは僕に向き直った。

「あなた、もしかして昨日の――ミツルくん?」

「……そうだけど」


 ツキは「へぇ」と言いながら、何度か頷いた。やっぱり無表情だが、口が半端に開かれたそれは、どこかあきれているようにも見える。

 だがそれも少しのことで、すぐに背中を向け準備を始めた。地面に置かれた水彩画セットから、パレットと、なぜか水色の絵の具だけを山ほど取り出した。


 同じ色のチューブが、どうみても二〇個近くある。


「なんで? 忘れ物?」

 チューブの山に目を奪われていて、彼女の質問を聞き逃してしまうところだった。

 なんで――多分、ここにまた来た理由を尋ねているんだろう。


 チューブまるまる一本をパレットに搾り出した彼女は、僕のことを仰ぎ見ていた。

 その目に向かって、僕は言う。

「宇宙人に、会いたいんだ」


 ツキの目が大きく開かれた。間違いない。今度こそ彼女は驚いている。


「――信じたんだ」

「……うそだったの?」


 ツキは横に首を振る。


「普通の人は、信じないから」

 それはそうだ。

 何十光年も向こうの生命体に言われてテレポーターを作っている、なんて言おうものなら、笑われるか、悪くすれば病院に連れていかれる。それを彼女も自覚しているのだろう。

 つまり、彼女は正常なのだ。本当に入院が必要になる人は、恐らくそんなことは自覚しない。

 彼女は正常で、そして実際にテレポーターを作っている。冗談で、こんな大それたものを作ろうだなんてしないだろう。彼女は、本気なのだ。


 僕は心の中でその論理を確かめる。

 宇宙人は、実在する。


「それ、何してるの?」

 ツキは、大して薄めていない絵の具を筆でかき混ぜ、ぺたぺたとテレポーターの表面に塗りたくっていた。

「色塗り」


 見たままの答えが返ってきた。ちゃんと尋ねなかった僕が悪いのだろうか。

「……なんで色を塗ってるの?」

 今度は、なかなか答えが返ってこない。ただ、筆だけが動いている。

 彼女は、返事だけはすぐに返してくれた。こんなに歯切れが悪いのは初めてではないだろうか。


「――思念の色」

 やっと、答えてくれた。


「彼らの操る思念エネルギーは、色によって性格付けされるの。例えば、兵器は赤。彼らの兵器は赤く塗られていて、それを介することによって、エネルギー化した思念に攻撃性を付与する。そして、テレポーターの色は空色でなければいけない。それが、空間跳躍の色だから」

 無表情のまま、さらりと言ってくれる。やはりこの人は、昨日出会ったツキである。


「――それが終わったら、何が残ってるの?」

 ツキは少し考え、首を振る。

「一応完成。彼らの到着を待つだけ」

 作業を続けるツキを見ながら、僕は次に言うべき言葉を確認する。


「――手伝うよ」

 筆が、止まった。

「なんで?」

「……さっきも言った」

 少しの間を置いて「そうだね」と言う。


 宇宙人に会いたい。そして、その星に行きたい。それが僕の望みである。

 うそかもしれない。

 だが、本当かもしれないのだ。


 本当である可能性がある以上、賭ける価値はある。少なくとも、僕はそう思った。

 想像の翼を失った僕には、もうこれに賭けるしかない。


 ツキは、目を伏せながら、作業に戻ってしまう。


「――ダメ」

 静かに、拒絶してきた。


「私は、何も与えることはできない」

「そんな……僕はただ」

 言葉が出ない。結局、僕が何を主張しようと、彼女の許しを得なければ参加することはできない。

 だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。


「僕は、他に何も望んでいない。彼らに会うことができれば、他に何も要らないんだ。だから、手伝わせてほしい。どんなことだってやるから」

「ダメ」


 鋼と同じ無機質な視線は、冷たさをもって僕を貫いた。

「あなたにできることなんて、ない。見ているだけなら、別に止めないけど」

 ――見ているだけ。それじゃ、ダメだ。彼らに会い、そして彼らの星に行く。


 僕は、すがる思いで彼女に尋ねる。

「一つだけ、いいかな」

「どうぞ」

 地面に散らばった空色絵の具のチューブを見つめる。


「テレポーターを塗るのに、水彩絵の具でなければいけない特別な理由とか、あるの?」

 ツキは、首を傾げた。

「特にないけど。家にあったから使っているだけで」


 僕は、声を忍ばせて笑った。

 肩を震わせる僕を、彼女は訝しげに見つめてきた。

「普通、こういう大きなものに色を塗るときってさ、ペンキやカラースプレーを使わない?」


 ツキは、きょとんとする。そして「あ」と言って、パレットとテレポーターを交互に見比べた。塗った個所から一筋、青い雫が滴り落ちている。


「ほら、役に立ったでしょ?」


 笑いが、止まらない。


「ペンキは、重いよ」

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