第2話

 自宅近くで見上げると、いくつかの星が空に現れていた。

 星座には詳しくないが、オリオン座くらいは見分けがつく。

 校舎裏での彼女の話に出てきた気がする。オリオン座大星雲の宇宙人に頼まれてテレポーターを作ってる――だったか。普通に考えれば荒唐無稽な作り話だが、淡々とボルトを締める姿からは本気さを感じた。電波、というやつだろうか。あるいは本当に――。


 とりとめもない思考をめぐらせていたところで、玄関についた。

 ドアを開こうとして、少しためらう。だがそれもわずかの間で、結局は開けるしかないのだ。


「あら、おかえりなさい」

 ゆっくりと開けたドアの向こうには、エプロン姿の母がいた。

 僕はうつむき加減にしながら「うん」と応える。


 コートを脱ぎ、階段を上ろうとする僕を、母は見逃してくれなかった。


「テスト勉強、がんばりなさいよ。前回の模試の成績、下がってるんですからね」

「わかってるよ」

 そう、わかっている。にもかかわらず、母は顔を合わせるたびに同じことを確認してくる。それを繰り返すのが仕事のロボットのように。

 これ以上ロボットの言葉を聞きたくないので、僕はさっさと階段を上り、自分の部屋に入った。


 蛍光灯の紐を引き、暗い部屋に光をともす。

 勉強机に鞄を置く。制服を脱いでコートと一緒にクローゼットにしまい、部屋着に着替えた。

 一息ついて、ベッドに横になる。白い天井を見つめていると、意識までベッドに沈みそうになる。

 だが、階段を上ってくる音が、それを引き止めた。立ち上がり、鞄から教科書を机に出す振りをする。


 それと同時に、ドアがノックされた。

 僕が応えるのを待たず、夕食の盆を持った母が部屋に入ってくる。

 思わずその顔を見てしまい、後悔する。

 眉をひそめ、目じりを下げたその表情は、落胆だ。


「てっきり、机に座ってるものとばかり思ってたけど、まだ教科書を出してるだけだなんて」


 二人しかいないのに、そうやっていつも独り言をこぼすのだ。


「ご飯よ」

「うん」


 母はテーブルの上に盆を置く。勉強机とは別の、食事用のスペースだ。

 ご飯に味噌汁、たくわんと焼き魚、そしてニンジンジュース。DHCと抗酸化作用を採れる、いつもの夕食だ。


「さっさと食べて勉強に戻りなさいね。いい? 時間は貴重なのよ?」

「……わかってる」

「わかってないようだから、いっつも言ってるのに」


 母の独り言は、いつもため息と一緒に吐き出される。

 僕はそれ以上は何も言わず、箸を取った。

 味噌汁も魚も、特別おいしくもまずくもない。ただ、栄養素を摂取するための手段にすぎない。


 今度はため息だけをついて、母は部屋を出ていった。

 階段を降りる音が聞こえなくなる。歯ですりつぶす音の合間に耳に聞こえるのは、一階のテレビが出す笑い声、どこか遠くのクラクション――意味がない情報ばかりだ。

 それはリズムだ。単調なリズムによって、僕を取り巻く日常は構成されている。

 そして僕自身も。


 お茶を流し込んで、僕は机に向かう。食器は風呂のときにでも台所において置けばいい。

 中に残った教科書やペンケースを全て出して、鞄を床に置く。


 顔を上げたとき、違和感を覚えた。

 平坦な日常におけるノイズ。いや、違う。あるべきノイズがない違和感……


 すぐに気づいた。机の本棚に、スペースが生まれていた。昨日まで――いや今日の朝までは八割以上埋まっていたそれが、残された本が横に倒れてしまうほど広がっている。

 抜け落ちた部分は、考えるまでもなくわかった。


 今あるのは、今日使わなかった教科のテキスト、ノート、参考書、資料集……。


 ――小説だけがなくなっている。


 すぐに母に問いただそうとしたが、止めた。どうせ返ってくる答えはわかっている。悪びれる様子もなく、平然と言うのだ。

 あなたのためにやった。

 勉強の妨げになる。

 小説は後でいくらでも読めるが、勉強は今しかできない……


 僕はベッドに倒れこむ。もう、起き上がる気力もない。

 歪む天井になぜか、物置の裏に出会った少女を見たような気がした。



 教科書以外で初めて小説を読んだのは、中学二年のときである。

 勉強するために図書室を訪れ、座った席に一冊の本がしまい忘れてあった。竜と騎士が描かれた表紙――ファンタジー小説だ。


 最初は気にせず勉強をしていたが、苦手だった数学をやっていたこともあり、自然とそちらに手が伸びた。

 騎士が仲間とともに竜を退治するという内容だった。

 個性豊かな仲間たちと焚き火を囲んでの語らい。街の人たちとのふれあい。暗い洞窟を進み、凶悪な魔獣を倒しながら、そして――


「あの……」

 声をかけてきたのは、図書委員の女子だった。もう部屋を閉める時間だという。

 図書室には二人しかいなかった。窓の外を見ると、青かった空は赤を通り越して黒になりつつあった。


 僕はそれを借りて、持ちかえった。

 漫画やゲームは母に禁止されていて、テレビは教養番組を一日三十分だけ。小説だけは国語理解の延長だと、教科書に載っている文豪たちのものしか許されなかった。ゆえに、この本の内容は新鮮そのものだった。仲間たちとの等身大の会話は、まるで自分も彼らとともに冒険をしている錯覚を起こさせる。

 そう。読んでいるときは、僕はこの世界から飛び出し、彼らとともに旅をしているのだ。

 だが、現実に戻ってきたときに感じるのは、途方もない喪失感。翼を持って空を翔けるのは快いが、中空にてそれを奪われれば、墜落するだけ。



 そして今日、僕は翼をもぎ取られてしまった。

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