第2話

 汚い話で申し訳ないが、私は吐いた。

 男の見ている前で、胃の中のものがすうっと上がってきて、そのまま吐いた。

 そして、私は救急車に乗せられて、近隣の病院へと来ていた。

 そして、看護師の問診を受けていた。

「宮澤由紀江さん。21歳。大学生ですね。一人暮らし?」

「はい」

「ご実家は遠いの?」

「三重県です」

 東京から新幹線と近鉄で三時間以上。

 まあ、近くではない。

「吐物には異常はありませんでした。何か思い当たることはありますか?」

 幻覚を見た、とは言いにくかったが、一度精神科にかかったこともあるのだ。隠しても仕方ない。

「最近、幻覚を見るんです。それが、かなりグロというか……、気持ちわるい幻覚で……」

「吐くほどの……?」

「はい。先日、精神科でお薬はいただきましたが、収まらなくて……」

「そう……ですか」


「大丈夫でしたか?」

 背後から声。

 振り返ると声をかけてくれた男がそこにいた。

「ひっ」

 思わず声が出た。

「先生、怯えてるじゃないですか。何かしたんじゃないですか?」

 よく見ると、男は白衣を着ている。

 先生……?

「何もしてませんよ。ね、宮澤さん」

 語りかけてきた。

 えっと……。

「僕はこの病院に勤めているんですよ」

 にこりと笑った。

 爽やかな笑顔。

 自分に声をかけてくれた男性が、たまたま医者だった、ということか。

「えっと……あの……すみません」

 多分、だいぶ失礼なことをしてしまった。

「僕は笹本と言います。この病院で内科医をしています」

「あ、どうも……」

「吐くほどの幻覚って……何を見たんですか?」

「殺人の現場です。相当なグロの……」

「ああ、それはしんどそうですね。ご愁傷様です」

「私、そういうの駄目なんですけど、どうしてか見てしまうんです。きっかり三分間」

「きっかり?」

「はい。はかっています。まあ、大体ですけど」

「それは、何か不思議ですね、何か深層心理の中に、三分という時間が設定されているんですかね」

「わからないです」

「そうですよね」

「だけど、今日のは……」

「はい?」

 あ、どうしよう。言っていいのかな。

 何か失礼? じゃないのかな。

「あの……。殺人をしていた犯人が……先生によく似てたんですよ」

「僕に? うーん、僕は今までに殺人なんかしたことないですねぇ」

「あ、いや、そうじゃなくて……」

「いえ。わかっていますよ。あなたに悪意がないことも」

「すみません」

「過誤記憶、という言葉があります」

「過誤……記憶ですか」

「はい。記憶というものは、それを支える神経的基盤、具体的にはシナプスを介したニューロンどうしの結びつきによるものです。それは極めて可塑的で、けっして固定的なものではありません。だからこそ、人は、記憶の内容に新たものを付与できるのです」

「はあ……可塑的……ですか」

「思うように物の形をつくれること、ですね。脳は、思った以上に都合よく記憶の改変を行います。かつて、フロイトの精神分析華やかりし頃は、抑圧された心的外傷が生み出すとされ、実験も多々ありました。自分自身を守るために、記憶を改変する、それは人として自然なことです」

 はあ。

「だから、あなたの場合は、幻覚の後、私の顔を見たことで、その幻覚の登場人物を私に置き換えた。ひょっとすると、あなたが見ていたその顔が、例えば近親者のような、その人であってほしくない対象だったかもしれません。そういった心のバランスが、私にすり変えられた可能性もあります」

 先生、内科医じゃなかったんですか?

「面白い、と言っては失礼ですね。私は心療内科も担当しているので、そういった心の働きが身体に影響を及ぼすということに、大変興味があるんですよ」

「そう……なんですか」

「まあ、あなたがそういう幻覚を見る原因については、何とも言えませんが。嘔吐までするとなれば、何らかのものはあるんでしょうね」

 うわ……、はじめてちゃんと話を聞いてくれた……。

 思わず、涙が出てきた。

「あ、宮澤さん、大丈夫ですよ。泣かなくても。僕は医者ですから」

 でも、涙が止まらなかった。

 安堵だ。

 多分。

 はじめて話を聞いてもらえたことの、これは安堵だ。

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