□4-1

■Ⅳ

   [サノ7]


 窓枠に取り付けられた格子が、僕の白いシャツにしましまの影を落としている。まるで、白黒の囚人服を着ているかのようだった。

 拘置所の取調室の中には、豊臣のスーツから漂う線香の香りが充満している。不快ではないが、リラックスできるものでもない。

「いやぁ、サノくんの説明は非常に分かりやすくて助かったよ。ウノくんと違ってね。その上、詳細だし。そのまま調書に書き写しても問題ないくらいだ。僕じゃあ、一週間前のことなんて忘れちゃうよ」

 豊臣と名乗った刑事が湯飲みを口に運び、わずかに残っていたお茶をお茶っ葉ごと飲み干した。

「忘れるのは得意じゃないので。それより、ガーゼか絆創膏をください。頬の傷が空気に触れて不衛生です」

「あー、それはさっきウノくんが剥がしちゃったんだよ。しゃべりにくいからって言って」

 腕を持ち上げると、両手を繋ぐ手錠に剥がされたガーゼがくっついていた。

「ったく……」

 ため息をつくと肋骨に痛みが走った。顔をしかめる僕を見て、豊臣がパイプ椅子から立ち上がる。

「じゃあ、とりあえず今日のとこはこれくらいにしようか。君も疲れただろうし」

「ずいぶんと優しいんですね。警察の捜査を散々引っかき回した少年相手に」

「まぁ、君も被害者だったみたいだからね……」

「このうえなくやっかいな被害者、でしょ?」

 豊臣は僕のかまかけには反応せずに小さく笑う。

「被害者は被害者さ」

 警察に拘束されてから様々な人間と話したが、僕が直接接触できる中でおそらく彼が一番地位の高い人間のようだった。アクチルのことも、警察の動きの全体像も、彼が一番俯瞰して把握していた。

「豊臣さん、伝言をお願いできますか?」

「ウノくんにかい?」

「いえ、あなたの上の人間に、です」

 豊臣が白髪交じりの顎髭をなでる。退出しようと緩めた気を、またぴんと張り直したのが分かった。

「上の人間に伝えてください。条件次第では、やっかいな被害者から、聞き分けのいい被害者になりますよ、と」

 豊臣は「どういうことかな」と首をかしげてみせる。とぼけている演技だろうとは思ったが僕は続ける。

「あの映像、観てないことにしてもいいです」


 あの晩。ウノと交代した僕は、プレハブ小屋の中にいた。

 工事のスケジュールが記されたホワイトボードや、壁に立てかけられたヘルメットを見て、そこが建築現場に設置された事務所であることに気が付く。

「ウノさんが、連れてきてくれたんです……」

 僕の前では、ファイルや筆記具を全てどかしたデスクをベッド代わりにして、文乃が横になっていた。

「あの、サノさん……」

「話はあとだ」

 僕は救急箱を見つけて、彼女の怪我に応急処置を施した。

「ありがとう……ございます……」

 文乃が僕の治療を抵抗することなく受け入れた。それは、彼女が死にあらがうと決めたことを表していた。

「僕の推理は正しかったんだな」

 かすれる声をひねり出しながら、文乃が笑う。

「はい、多分。全部……」

 高峰星良をモデルにした文乃を救うために生まれた第三人格が僕の中にいる。

 様々な疑問を解決できる結論だ。だが、隣の水槽にいた別の女の子を助けるためにこの体が第三人格を生み出していたという結論を、心の底から信じることはできていなかった。水槽の中で他者を気遣うなど、自分の脱出の確率を下げる行為だと、僕は考えてしまうからだ。

 だが、当時の灰土少年は、それでも第三の人格を生み出すことを選んだ。

「第三人格は、どんな人間だった?」

 文乃は僕の顔をまじまじと見つめる。その視線が僕なのか、それとも、セラという第三人格に向けられたものかは分からなかったが、彼女の表情は穏やかだった。

「お兄ちゃん想いの、可愛くて、優しい女の子でしたよ」

 多重人格者が異性の人格を持つことは珍しい話ではない。そういった症例を本で読んだこともあったが、いざ自分の身に起きているとなるとなんとなくむずがゆい。

「ウノさんとサノさんの幸せも、願っていると言っていました……」

「この体が無くなったら困るだろうからな」

「そういう意味じゃないって、分かってますよね?」

 文乃が僕をからかうように小さく笑った。

「自分の今までの常識を疑う必要はあるんだろうな……」

 どこかで、今のままでいいのだと僕は思い込んでいた。焼き肉にいく相手などいらない。信頼する相手もいらない。そう自分のことを決めつけていた。

 もちろん、セラの言っていたという〝幸せ〟とやらが、人との繋がりの先にあるのかどうかは分からない。

 だが、頭の中に第三の人格がいた、という予想もしなかった事実を目の当たりにした今、自分で自分のことを理解し切れていると思い込むなんて愚かなことだとは思う。

「それと、もう一つだけ、セラちゃんから頼まれたことがあって……」

 文乃は僕にゴミ箱を手に取るように指示した。

「なんだ、ゴミ箱がどうかし――ぐっ!」

 指示に従ってゴミ箱を持ち上げると、文乃の手刀が僕の腹に突き刺さった。内臓の中で爆発した吐き気を抑えきれず、僕はゴミ箱に嘔吐してしまう。

「な、なにを……!」

「ごめんなさい……! そこに、カメラのデータがあるからって、セラちゃんに頼まれて……」

「そこ……?」

 咳き込みながら、文乃が指差したゴミ箱を観察する。すると吐しゃ物の中に粒ガムのようなサイズのメモリーカードが混ざっていた。データ容量とメーカーを確認すると、それは間違いなくクマのぬいぐるみの中にあったカメラのメモリーカードだった。

「セラちゃん。あの教室でサノさんに戻る前に、飲み込んでいたみたいです」

「飲み込んだ? なんのために?」

「腕にメッセージを残したあと、向かいの校舎にいるパーカー男と目が合ったそうです。男はすぐにその場から逃げ出したんですけど……」

「セラは、パーカー男がこの教室にやってくると思った、ということか……?」

「はい。高峰星良の仲間だと思ったみたいで」

 結果的には間違っていたが、その推測は決して笑っていいものではない。

「セラちゃんは長い間、表に出てはいられないらしいんです。そんな中で、あの教室でなにが起きたのかを証明する貴重なものを奪わせないようにって、咄嗟に飲み込んだらしくて……」

 最悪の事態に備えて、自分なりのベストな判断をしたのだ。僕らの妹は、ウノよりもよっぽど賢いようだ。

 僕は文乃の治療を終えてから、事務所にあった機材を使って、メモリーカードの中身を確認した。データに破損はなく、そこにはしっかりと僕らが眠ってしまったあとの映像が残されていた。

 僕ら三人が床に倒れたところから再生を始める。

 最後に僕が倒れた数秒後に、高峰星良がおもむろに立ち上がり、教室の窓を開けた。数回深呼吸をしてから、僕らの元へと戻ってくる。

『てか、あんた誰よ?』

 僕と話していた時とは真逆の低い声だった。彼女は倒れている文乃の肩を足で持ち上げてその顔を確認した。

『まじ記憶ないわー。でも、ま、いっか、二人一緒に殺せるなんてラッキーじゃん』

 高峰星良は自らの鞄を持ち上げ、ナイフを取り出す。そこで、画面の中の彼女と目が合った。

『あれ、てかこのクマ…… カメラ入ってない? 入ってるよね。ピースピース!』

 あせりもせずに、彼女は両手でピースサインを作った。その目はどこか焦点があっていないように感じた。

『気付いてよかったー。あ、でもあとでこれ使えるかも……』

 高峰星良は、カメラを壊すどころか、僕と文乃がはっきりと映るように位置を調節した。彼女が口にしたあとで使えるかも、の意味は分からなかったが、そのまま再生を続ける。

『どーちーらーにしーよーうかーな』

 指を僕と文乃間で交互に動かしたあと、高峰星良は文乃に狙いを定めた。

 文乃の隣に膝をついて、手に持ったナイフを振り上げる。

 その時だった。僕の体が動き出す。

『だめぇえ!』

 ぎこちない動きで立ち上がり、高峰星良を突き飛ばす。

『な! なんで動けんのよ!』

『やめて! 文乃ちゃんを傷つけるなんて私が許さない!』

『邪魔すんなよ! 私がまたあの絵を描くには! あの時の興奮が必要なの!』

 ナイフを持つ高峰星良に臆することなく、セラは彼女に突進していった。

 これは僕でも、ウノでもない。でもその姿を見ていると、心臓の下あたりが熱を持つのを感じた。

 やがて、揉みあったすえに高峰星良がナイフを落とした。セラがそれを拾い上げた瞬間、高峰星良がナイフを取り返そうと覆いかぶさり、動かなくなる。

 そこで僕は再生をやめ、緊急通報をして建築現場に警察と救急を呼んだ。


 取り調べの中で、僕は警察からいくつかの情報を聞き出した。

 高峰星良が、水族館での監禁中に壁に血で絵を描いていたこと。

 彼女がその一枚を最高傑作と自賛し、同レベルの作品を描こうとずっと試みていたこと。だが、それがかなわず、次第に心を病んでいったこと。

 警察が見つけた彼女の潜伏先には、アクチルの殺害現場を鮮明に描写したカンバスが残されていたらしい。

 教室でカメラを見つけた彼女が、あとで使えるかも、と呟いていたのはおそらく持ち帰って自らのインスピレーションを掻き立てる道具にする、という意味だったのだろう。

「あの映像、観てないことにしてもいいです」

 僕の言葉に豊臣は白髪交じりの眉毛をぴくんと動かした。ずっと仮面のような笑顔を顔に張り付けていた彼の、初めて見る驚きの表情だった。

「警察幹部の娘が連続殺人犯。今、あなたたちはこの警察の威信にかかわる異常事態を、どうにかダメージを最小限に収められるように動いてるはずだ」

 高峰星良が犯人であるという事実はさすがに隠せないだろうが、誘拐事件の時に受けた心理的トラウマや、洗脳が原因だった。という世間の同情を引くことができるシナリオを必死で用意しているはずだ。

「その為には、あの嬉々として平然と殺人を行おうとしている彼女の映像は都合が悪いはずですよね。だから、そもそも存在すらしてないことにしてもいいです」

 事実、まだマスコミにあの映像のことは発表されていない。

「あなたたちが世間に発表したいシナリオができたら教えてください。僕もそれに沿った証言をしますから」

 豊臣は「ふむ」と自分の顎髭をなでてから、こちらに向き直る。

「ちなみにこれは、なにかを約束するものではなく、興味本位で聞くだけなんだが、君が出す条件は? タダ、じゃあないんだろ?」

 僕は彼に、手についた手錠を掲げる。まだそこにはウノが外したガーゼがぶら下がっていた。

「公務執行妨害に、廃校への不法侵入、無賃乗車、今回犯したり、判明したもろもろの罪を、検察庁とうまいこと話し合って見逃してほしいんです」

「大きく出たね」

「そうでもないでしょう。普通に法廷で戦ってもこっちが有利なはずだ。なにせ僕は殺されそうになった被害者ですし。ただ単に、手間を省きたいだけです」

 実刑を回避したとしても、精神病院での治療を義務付けられたら厄介だ。

「あの闇カジノ業者も、逮捕した鼻ピアスの男をきっかけに、組織丸ごと摘発できそうなんですよね? そうなれば、警察の大きな手柄だ。その分のお礼だと思ってお願いします」

 豊臣はしばらく考え込んだあと「ま、僕が決めることじゃないか」と表情を緩めた。

「話すだけ話してみるよ」

 ドアノブに手をかけた豊臣を、僕は再度呼び止める。

「あと、警察の管轄からは外れてることは百も承知で、もう一つだけ、条件が」

「なんだね?」

 格子付きの窓から外を眺める。はめ込まれているのは曇りガラスだったが、向こう側に生い茂る葉っぱが風に揺れているのが分かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る