□3-5
[文乃7]
銃弾に腿を貫かれたのに、不思議と痛みを感じない。どちらかというと冷たい感触があるだけだ。
ナイフで人を刺し殺した人間を追いかけ、拳銃を持っている人間に捕まり、復讐を決意し、失敗する。今思うと、数時間前からずっと私の脳の一部は麻痺していたのだろう。
ウノが私の頭に銃を向けた時、呑気におそろいだ、なんて思った。
まるで同じ文房具を示し合わせて使う時みたいに、親友と同じ人間に殺されることを嬉しく思った。
「じゃあ、おやすみな」
目をつむり。
私は銃声がこだまするのを聞いた。
*
銃声が、こだまする?
おかしい。私の頭に向けて発射された銃声の残響など、聞こえるはずがないのに。
瞼を押し上げる。目の前には天井に拳銃を向けているウノの姿があった。
「なんで……」
彼は銃を遠くへと放り投げて、私の体を抱き上げる。
「文乃ちゃん……!」
耳元で女の子の声がした。
ありえない。私を抱きしめているのはウノのはずだ。だが、その喉から聞こえる声は高く、あきらかに女性のものだった。
「信じらんない! お兄ちゃんたち! ほんとになに考えてるわけ! 文乃ちゃんを撃っちゃうなんて!」
私を抱きしめる誰かが、幼い口調で叫んでいる。
ウノでも、サノでもない。つまりこれは、彼らの体の中にあった第三人格なのだ。
「あなたは……」
私を抱きしめていた腕がほどかれて、彼女の顔が目に入る。
「やっと会えたね、文乃ちゃん……!」
目を細め、口をいっぱいに開いて、子供のような無垢な笑顔を浮かべた。
私は、水槽で言葉を交わした彼女の笑顔を見たことはない。でも、声から想像し、ずっと心に浮かべていた笑顔と、それは完全に一致した。
「星良ちゃん、なの……?」
彼女は深く、一度だけ縦に頷いた。
「うん。私だよ。セラだよ」
パイプ越しに初めて自己紹介された時と同じトーンで彼女は名乗った。
「そんな、なんで……。なにが、どうなって……」
肉体は十八歳の男性のものだ。六年前に聞いたものよりも、声にはウノとサノの声質が混じっている。なのに私の心は、目の前の人格を水槽の中で会話したあのタカミネセラだと認識している。
「でも、ダメだよ。文乃ちゃん。約束したじゃん。幸せになるって」
「約、束……?」
「指切りげんまん、したじゃん」
そう言いながらセラが私の手と絡ませたのは、小指ではなく中指だった。あの日、自分たちすら見えないパイプの中でした誓いが、目の前で再現されていた。
「あぁ……」
涙がボロボロとこぼれてくる。あの日、繋いだ手は、この手だったのだ。
「あなたが、セラちゃん……」
「うん」
「じゃあ、水槽で私と会話して、ずっと支えてくれたのは、あの高峰星良じゃなくて、あなただったってこと……?」
「うん」
今度は私から彼女に抱き着いた。いや、彼女の体にすがっただけかもしれない。
「そんな! なんで! どうして! どうなってるの……!」
「うん。ごめんね。会いにいけなくて、私には、私の役割があるから……」
サノの言葉を思い出す。
――人間は理由があって自分の中に新しい人格を生み出す。
「私は、文乃ちゃんを守るために生まれた人格なの」
「私の、ため……?」
セラがゆっくりと頷く。
「お兄ちゃんたち二人は、逃げ出すために必死だった。毎日いっぱい考えて、いっぱい準備して、いっぱい鍛えて、夜はぐっすり眠ってた。だから、あの日、隣のパイプから、文乃ちゃんの苦しそうな声が聞こえても、反応できなかったんだ……」
バスケットボールのネットで、首を吊っていた私の声のことだ。
「だから、この体は私を生み出したの……」
あの瞬間、隣の水槽にいたのはウノとサノだったのだ。
「なんで、じゃあ、名前を高峰星良だなんて……」
「それがあなたを励ますために、一番だって思ったんだ。誘拐前にテレビで見た高峰星良って子が水族館に捕まってること、知ってたから」
「励ますために……?」
「うん。あの子のお父さんが、警察官だってテレビで言ってたから、安心させられるって思ったの」
――当時憧れてるボクサーと科学者がいたんだ。それぞれ宇野カズマ、と佐野学って名前だった。それぞれの人格が果たすべき目的に適してた人間をモデルにしたんだ。
この体は実在する人間をモデルにして新しい人格を形成する。ウノとサノがそうだったように、タカミネセラも同じだったのだ。
あの状況で、もっとも私に希望を与えられる人間、同世代で、同性で、救出への希望を、根拠と共に与えられる人間。それが高峰星良だったのだ。
私が、セラに絵を描いてほしいと頼んだことを思い出す。
――ごめん、私は、大水槽にいけないんだ……。
彼女はそう言って断ったが、昼の間はウノとサノが表に出ていたし、なによりも彼女自身には絵を描く技術がなくてそもそもそんなことは不可能だったのだ。
「なんで、そこまでして、私なんかを……」
「だって、嫌じゃん。誰かが死んじゃうなんて。悲しい」
論理的ではない無垢な感情だった。でも、それ以上彼女には理由などいらなかったのだ。
優しさ、同情、慈愛、私は、ウノとサノがあの地獄から抜け出すために不必要なそれらを欠落させ、捨てたのだと思っていた。だが、違う。ただ、もう一人の人格に割り振っていただけだったのだ。
「でも、ごめんね、なんか声がちょっと男っぽいよね」
セラが照れくさそうに自分で出した声に耳を澄ませる。
確かに昔はもっと高い声だった。肉体が声変わりしたせいだろう。
「でも、なんで……、今になって……」
「お兄ちゃんたちが水族館から逃げ出して。子供たちが警察に助けられて、私の役目は一回終わったの」
私が水族館から助け出され、夜な夜な励ます必要がなくなったのだ。
「それから頭の中でね、ずっと私は眠ってた。六年間。退屈とか、嫌だなとかはまったくないよ。頭の中だと、時間の感覚はあやふやだから」
彼女は頭の中に白い部屋があるのだと説明した。
「そしたら、文乃ちゃんの声が聞こえてきた。あの時よりも大人っぽくなった、文乃ちゃんの声が……。次に高峰星良さんの声が聞こえてきて、サノ兄ちゃんを眠らせちゃった」
「意識が、あったの?」
「うん。体はすぐには動かせなかったけど、気が付いたら、私はこの目で、この体で、教室の様子を見てた」
私たちが知りたがっていたあの教室で起きたことを、彼女は知っているのだ。
「あの時、なにが、あったの……?」
「私じゃないほうの高峰星良さんが立ち上がったの。そしたらすぐに窓を開けて呼吸してた。あの人は眠った演技をしてただけみたい」
「じゃあ、あの催眠ガスは……」
「うん、テーブルの下にあったジュースの缶みたいなのは自分のバッグにしまってた。そのあとで彼女は笑った。〝二人一緒に殺せるなんてラッキーじゃん〟って……」
「殺せる……?」
その時の高峰星良の顔を思い出しているのか、セラは怯えて拳をぎゅっと握った。
「それと、文乃ちゃんの顔を見ながら、こんな人知らないのに、って、首を傾げてた」
私が水槽で話していたのが今、目の前にいるこのセラなのであれば、高峰星良は私のことなど全く知らなくて当然だ。
「そしたら、高峰星良さんが、バッグの中からナイフを取り出したの……」
「待って、それって……」
「うん。お兄ちゃんたちと、文乃さんを殺そうとしてた……」
――アクチルが同じアクチルを殺し始めるってことも全然ありえるだろ。
ウノのあの言葉は的を射ていたのだ。
「高峰星良が、アクチルの連続刺殺事件の犯人……」
サノは、彼女がなぜ警察官である父親に頼らずに身を隠しているのか疑問に思っていた。だが、その答えはこの上なくシンプルだったのだ。
自分が犯人だから――。
「じゃあ、セラちゃんは、私を守ろうとして……」
彼女はその時の感触を思い出すかのように自分の両手を見つめた。
「高峰星良がナイフを文乃ちゃんに刺そうとした時に、ようやく体が動くようになって、私、必死に止めようとしたの……。でも、私頭良くないし、強くもないし。必死でもみ合ってるうちに、奪ったナイフが、あの人のお腹に刺さっちゃって……」
私はこわばる彼女の手を握り、ほぐす。そこにある罪悪感を消し去るように。
「助けてくれたんだね。ありがとう」
お礼を口にすると、セラは私の手を握り返してくれた。きっと彼女も不安だったのだ。
「私パニックになっちゃって、どうしよう、どうしようって、とにかく、お兄ちゃんに私が出てきたことを知らせたくて、腕に手紙を残して、そのあとのことは、よく覚えてないの……。次に気が付いた時は、私、車の中だった」
「パーカーを着た男から、私を助けてくれた時だね」
彼を突き飛ばしてくれたのは、ウノではなく、彼女だったのだ。私に危険が迫った時に彼女は現れる。
「すぐにやり返されちゃったけどね」
セラは照れくさそうに笑った。
「あの時も痛かった、よね……」
「ううん。私はすぐに引っ込んだから。お兄ちゃんたちのほうが痛かったと思う」
セラは「そうだ。お兄ちゃんたちで思い出した」と目を見開く。
「一つだけ、お兄ちゃんたちに教えておいてほしいことがあるの」
彼女はウノとサノへの伝言を私に託した。
「わかった、ちゃんと伝えておくね……」
「ありがとう」
彼女の無垢な笑顔に、胸が苦しくなる。
「お礼なんて、言われる筋合いないよ……」
私はなんてバカなのだろうか。すぐ目の前に捜していた親友がいて、私を救っていてくれたのに、それに気が付かずにいたのだ。
「でも、サノさんは、全部気づいたんだ……」
私が水槽の中で話していたセラが自分の第三人格だったこと。その人格が私を守るために作られていること。私に危険が及ぶと彼女が表に現れるというルール。
仮定し、推測し、そして、検証した。
「あなたを、私に会せようとしてくれたんだ……」
サノ自身が私に銃を向ける演技をするだけではダメだったのだ。だから、真実を知らないウノに任せた。彼らにしかできない、本気の自作自演だ。
「私……、なんてバカなんだろう……。ごめんね、痛かったよね。ごめんね。私のせいで……」
セラの顔についた血を袖でぬぐう。その痛みを与えたのは他ならぬ私自身なのに、今すぐにその傷を引き取ってあげたいとすら思う。
「いいよ。お兄ちゃんたちって性格悪いから。これくらいは痛い目見たほうがいいんだよ!」
彼女はケラケラと笑って、乱れた私の髪を撫でつけた。
「怒りたいのは、そんなことじゃないよ。許せないのは、大切な友達が、全部諦めようとしてること……」
彼女はお見通しだった。私がすべてを投げ捨て、未来に背中を向けたことを知ったうえで、今ここにいるのだ。
「だって……私、セラちゃんが、死んじゃったのかと……」
「うん。でも、私はちゃんと、ここで生きてる」
セラが私の頭を抱えるように抱きしめる。
「あなたの幸せを願ってるからね……」
ボロボロと涙がこぼれてくる。こんな風に泣いていいはずがないのに、嗚咽が止まらなかった。
「私も、文乃ちゃんとおしゃべりするの大好きだった。文乃ちゃんが優しいってこと、ちゃんと知ってる。文乃ちゃんの強さだって、文乃ちゃんが持っているならそれは、きっと呪いなんかじゃないって信じてる」
ぼんやりとした思考が、もう一度鮮明になってくる。同時に、遮断していた痛みが頭に届く。
あぁ、痛い。撃たれた太ももが、叫んで震える喉が、親友を傷つけてしまった心が痛い。でも、これが生きているということなんだ。生きようとしている証なんだ。
「ごめんね、ごめんねセラちゃん……」
「もう一度、約束しよ」
あの日のように、でも、遮るものがなにもない今、あの日よりも強く、中指を絡ませる。
「幸せになってね」
「また、会える……?」
セラは申し訳なさそうに笑った。
「ダメだよ。だって、私が出てくるのは、文乃ちゃんが危ない時だけだもん。そんなこと、あっちゃダメだよ……」
認めたくなかった。だが確かに、私はもう二度とセラと会ってはいけないのだ。それは、私を救い、幸せを願う彼女に対する裏切りになるのだから。
「私も、お兄ちゃんたちも、文乃ちゃんも、普通とは違うけど、それはここに存在しちゃいけない理由になんてならない。ひどいこと言う人には、知ったことかー! って、言ってやればいいのよ」
「そう、なのかな……?」
「うん。だって、私は文乃ちゃんが笑っていてくれたら嬉しいもん! お兄ちゃんたちが笑っていてくれたら嬉しいもん! 覚えててね。私はずっとこの体の中にいる。この中で、みんなの幸せを願ってる」
私が強くうなずくと、彼女はまた無垢な笑顔を浮かべて歌い始めた。
「ゆーびきり、げんまん! うーそついたら、はーりせんぼんのーます! ゆーびきった!」
この世界に彼女が存在している。その小さな事実が世界のすべてを包む。
「大好きだよ。セラちゃん」
「私も。幸せになってね。文乃ちゃん」
私を抱きしめる彼女の手から力が抜けるのが分かった。そのあとしばらくしてから、ポンポンと二回頭を叩かれる。そのぎこちない手つきが、セラが心の奥へと帰っていき、ウノと交代したことを私に知らせた。
それでも涙は止まらず、ただただ、私は彼の体にしがみついて泣きじゃくった。
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