□3-3
[サノ6]
痛くない箇所がなかった。眼球に垂れてくる自分の血を瞼でどかすだけでも、痛みが走った。
「なにが……」
全身のダメージを感じ取る。左腕にはヒビが入っているかもしれない。肋骨は数本折れているだろう。脚の筋肉は乳酸にまみれていてうまく動かない。そして――。
「ウノさんが、頑張ってくれたんです……」
天井だけが映っていた視界に、文乃の顔が現れる。
「サノさんの言う通り、ペンキ爆弾で気を反らしながらウノさんは戦ったんですけど、相手の大人たちの数が多くて……。でも安心してください。ボロボロにはなってしまいましたが、全員やっつけてくれましたから」
周囲から文乃以外の声は聞こえない。首を動かすと、僕をここへ連れてきて監禁していた連中が横たわっているのが見えた。
「立たせてくれ……」
文乃が僕の腕を引っ張り、起き上がらせる。痛みがひどかったが、しっかりと周囲の状況を確認したかった。
手首から腕時計が落ちる。文乃はそれを見て「戦ってる間に、壊れちゃったんです」と説明した。
「パーカー、男は……」
「彼は、上の人間の指示を受けて動いてたみたいです。その上の人間というのが、あの人です」
文乃がフロアの淵に寝転がる男を指差す。寝返りの一つでも打てば、真っ逆さまに落下してしまいそうな場所に彼はいた。
「あいつ……」
「ウノさん言ってました。最近、自分たちがちょっかいだした闇カジノ経営者だって」
「僕も見覚えあるよ……」
「話を聞く前に気絶させてしまいましたけど、起こして話を聞きますか?」
「そう、だな……」
文乃に支えられながら歩いていく。途中、ペンキに足を取られて転ぶ。
「すまん……」
「いいんです。無理しないでください」
文乃に引きずられるようにしながら鼻ピアスの男の前までたどり着く。
「こいつが、すべてを仕組んでたのか?」
「かも、しれません……」
ふと顔を上げると、ボロボロの僕のことなんて知ったこっちゃないという様子で、眼下に美しい夜景が広がっていた。
近くに同じ高さのビルもなく、遮られることのない風がびゅうびゅうとフロアに吹き付けている。
「サノさん……」
「なんだ?」
「ごめんなさい……」
僕の腰に添えていた文乃の腕に、力が込められた。
茫漠とした量の空気だけが積み重なっている宙へ、僕の体が押し出される。
パン――。
その音は、干した布団を叩くかのようなあっけない音だった。
風が一瞬だけやんだ合間を縫って、僕の手元からあがってきた煙が鼻にはいる。
「なんで……」
文乃が自分の二の腕を押さえながら後ずさりする。袖の中を通った血が、彼女の手首にまで垂れてきた。一発で行動不能にしたかったが、出血量から言って、弾丸はかすっただけのようだった。
「さっき転んだ時に、拾っておいたんだ」
今度は堂々と文乃へ拳銃を向ける。彼女は驚くべき速さで、近くの柱の陰へと飛び込んだ。
「私から身を守るためにですか? その前から、私の敵意に気が付いていたと?」
文乃の声に大きな焦りはなかった。ダメージはやはり大きくはないようだ。
「目が覚めた時に、これが手にあったんだ」
僕は柱のほうへアメピンを投げ捨てる。
「これ、私の……? いつの間に……!」
文乃の長い前髪を留めていたピンだ。おそらくウノがどこかのタイミングで奪いとっていたのだろう。
「それを持っていたというだけで状況を把握したんですか?」
「持っていただけじゃない。あのバカはもっとはっきりと、君に攻撃を受けていることを示してくれていたよ」
拳銃を支える右手、その人差し指の爪が真っ赤に染まっている。ウノはアメピンを、爪と指の間に刺し込んでいたのだ。
偶然ではありえないその状況だ。僕はすぐにそれがウノからのなんらかの危機を知らせるメッセージだと気が付いた。
「すぐに周りを観察したが、君以外の脅威はもうなかった。だから、分かったんだ。君が僕らへの復讐を実行に移したってことが」
僕はちらりと足元で気絶している鼻ピアスの男を確認する。
「こいつらとの戦いでボロボロになったウノに、とどめをさそうとしてたってことか?」
「いいえ、私がやりました。ほとんど全部……。私、そういうの得意なんです」
「それが、君の才能だったわけか……」
ウノを凌駕するほどの能力だとはにわかには信じがたいが、このボロボロの自分の体、そして、先ほど柱の陰に逃げ込んだ素早い動きを見る限り、信じるしかないようだ。
「すでに、この鼻ピアスの男から話は聞いたあとのようだな」
文乃は僕への復讐を決意した今も律儀だった。
「はい、その通りです」
「僕、だったのか……」
鼻ピアスの男の口から、もしくはパーカー男の口から、決定的な証言が出たからこそ、文乃は僕への復讐を実行に移したのだろう。
「見ていたそうです。あなたが星良ちゃんを刺す瞬間を」
「そうか……」
不思議と驚きはなかった。薄々、自分でも気が付いていたのだ。あの教室の状況を思い出しても、誰かが僕に罪を着せようとした痕跡がないことに。
ペンキにまみれた袖をめくる。そこには茶色く変色した彼女の血文字がまだこびりついていた。
《3ニンメ ガ 殺シタ》
ナイフを持ったまま書いたのだろうが、ウノよりも下手くそな字だ。これを書いた人格が、僕の頭の中に今も潜んでいる。
「確認しておきたいんですが、サノさんではないんですね? 刺したのは」
「そうか。君からすれば、この人格がアクチルの連続殺人犯であり、三人目の人格という情報がブラフにも見えるわけか」
僕なりに本気で戸惑い焦っていたのだが、それを感じ取れだなんていうのは無理な相談だ。
「だが見当違いだ。本当にあの時間の記憶はない。僕じゃない」
もちろんこの言葉を完全に証明することはできないが、文乃は「そうですか」と頷き、それ以上質問を重ねることはしなかった。この言葉が嘘だろうが真実だろうが、彼女のやることは変わらないからだろう。
「その第三人格さんを、今ここで出すことはできませんか?」
「できるならやってる。自分自身を縄で縛ったうえでな。だが無理なんだ。第三人格が表に現れるルールが分からないから」
そう。この体は荒唐無稽に見えてルールがある。窮屈で融通のきかない体だ。
「そうですか、じゃあやっぱり、今、あなたに復讐するしかないんですね」
「僕は拳銃を持ってるんだぞ?」
自分で言ったことだが、見え見えの虚勢であることはバレバレだった。
全身に受けたダメージで拳銃を構えることすら満足にできないし、血を流したことで頭がふらふらとしている。
それに対し、文乃は、銃弾が腕に一発かすったこと以外はノーダメージだ。そのうえ捨て身も辞さない覚悟を決めているだろう。ウノをここまでの状態に追い込む人間を、この貧弱な人格で相手しなくてはいけないのだ。
「話は、ここまでにしましょう」
文乃が柱から飛び出してくる。タイミングを宣言されたにも関わらず、僕がとっさに放った弾丸は、彼女の一メートル横の床へとめり込んだ。
「くっ……!」
僕は急所を守るためにダンゴムシのように丸まる。文乃は、そんな僕の二の腕にキックを食らわせた。骨がきしむ。彼女のやわな体から繰り出されているとは思えない、ハンマーで殴られたような重い蹴りだった。人の体にダメージを与える。その一点において、彼女の体は機械のように無慈悲に、悪魔のように効率的に動いている。
「ぐっ……」
文乃にもう一度拳銃を向ける。狙いは定めずに三発乱射した。
それが苦し紛れの射撃であることは分かっていただろうが、彼女はコンクリートの柱へと飛び込み、それを完全に回避する。
僕はその隙に、積まれた鉄骨の裏側へと飛び込む。
文乃は僕がさらに射撃する気配がないことを確かめてから、またも驚くべきスピードで、僕が飛び込んだ鉄骨の裏側へとやってきた。
しかし、その時には僕はすでに、別の資材の物陰に隠れていた。
頭を出さないように這いつくばりながら、物陰から物陰へと移動する。
僕を見失った文乃に焦る様子はなかった。フロアの四方に広がるのは空だけだし、唯一の脱出手段であるエレベーターも、彼女の背中側にあるのだから当然だろう。
「考えろ……考えるんだ……」
周囲を見渡す。転がっている鉄パイプに、発電機で動いている照明、こびりついたペンキ、利用できるものを必死に探す。
「くそ、どうしろっていうんだ……」
あたりを眺めたあとで最後に自分のポケットを漁る。
「これは――」
指先に当たったそれを、僕は引っ張り出した。
*
文乃の足音が近づく。そのテンポは遅く、いつ、どの物陰から僕が飛び出してこようが対応できる速度だった。
「サノさん、いくら頭が良くても、拳銃を使ったことなんてないんですよね? 簡単なようで射撃は難しいと聞きました。あなたに勝ち目はないです。もう諦めてくれませんか?」
「そのほうが、賢いのかもしれないな……」
僕は隠れていたコンクリートの柱の陰から顔を出す。
文乃との距離は五メートルほどだった。
「時間を稼いでウノに撃たせれば可能性はあったかもしれないが、素人の僕に君を打ち抜くのは無理そうだ。これは、詰みかもしれないな」
事実、僕の体力は限界に近付いていた。
「とどめをさしてくれ。親友の復讐を果たすといい」
僕が一歩近づくと、文乃はこちらに向かって手の平を構えた。
「待ってください。サノさん」
「なんだ」
「拳銃は、どこにやったんですか?」
腰に手をあてて誤魔化していたが、拳銃を手に持っていないことをすぐに見抜かれる。
「諦めたから、その辺に捨てたよ」
文乃はしばらく僕の目を見つめたあとで、憐れむように笑った。
「信じると、思いますか?」
「だよな……。君は短い時間だったが、僕と時間を共にしてる、これは罠なんじゃないか、そう思うよな」
文乃はじっくりと僕のつま先から頭までを観察する。
「コンテナの中で僕は言っただろ? これだけのものがあれば、いくらでもやりようはある。と。そう、こんな工事現場なら、なんでも作れるんだよ」
文乃へ見せてきた僕らの戦い方そのものが、一番の布石だった。
「例えば、拳銃を遠隔発射できる装置とかね」
――パン。
破裂音が響く。文乃の後方からだ。
もちろん射撃音を聞いてから弾を避けることなど不可能だ。それでも、ウノ並みの反応速度を持つ彼女は、反射的に音のしたほうを振り返る。
だが、彼女の視線の先にあるのは、ばらばらに飛び散った風船の欠片だけだ。
「さすがに遠隔発射装置なんて無理だ――」
僕は腰に隠していた拳銃を抜き、狙いを定める。
彼女はすぐに破裂音がダミーだと気が付いてこちらに向き直ったが、目が合った瞬間、僕は引き金を絞る。
風船の破裂音よりも分厚い音がフロアに響いた――。
「あの、風船……」
文乃が床に落ちた風船の残骸を眺める。
「味方レンタルは今、依頼人にサービスとして風船を配ってるんだ」
ポケットから出てきたのは、ウノがその思い付きのために持ち歩いていたアートバルーンだった。
「どうやってその場所から、私の後ろに置いた風船を割ったんですか?」
「発電機の中の灯油を付着させて、あそこに放置していただけだよ。油分がゴムの表面を少しずつ溶かすんだ。タイミングは運まかせだったが……」
文乃が小さく笑い――
「うまくいってよかったよ……」
――その場に倒れた。
彼女の右腿から流れた血が、黒いスカートをさらに黒く染めていく。
「なんでだろ、私、ちょっと安心してます……」
「僕を殺さずにすんだことにか?」
「あれだけ怖がらせておいて、バカみたいですよね……」
目に涙を溜めながら、文乃が微笑む。
「いや、分かるさ。僕も今、非合理に、非論理的に、外れればよかった、と思っている」
人を傷つけることはリスキーだ。単純に自分の自由がその分、奪われていく。
だが、それはそれとして、誰かを傷つけていい気分がしないというのも事実だ。
「あぁ、ごめんね星良ちゃん。私、あなたの仇、取れなかった……」
天井に向かって文乃がこぼす。答えるのは、発電機の断続的なエンジン音だけだ。
「これから、ウノさんとサノさんはどうするんですか?」
「逃げる。そして、自分の第三人格に関して調査と検証を行う。まだやつのことは微塵も分かっていないからな」
僕はエレベーターの前に置かれていた肩掛けバッグと、その荷物を持って文乃の元へ戻ってくる。中身をポケットに移して、バッグの肩ひもを文乃の脚のつけねに巻き付けきつくしばる。傷口のすぐ近くを圧迫したが、彼女は小さくうめくだけだった。おそらく異常な精神状態によって分泌された脳内物質が、彼女の痛みを麻痺させているのだろう。
「止血、ですか?」
「そうだ」
「しなくて、いいですよ……?」
「このまま、放置すれば、死ぬぞ」
「それでいい、って意味です……」
文乃は力なく笑って、首をこちらに傾けた。
「ここで助けたら、私、またあなたを殺しにいっちゃいますよ? 私しつこいんです。六年間会ってない相手を、いまだに親友って思うような女ですから」
「それは、勘弁願いたいな……」
失血によって紫色になり始めた唇を文乃が動かす。
「あぁ、でも、最後に、ウノさんにお礼だけ伝えてもらえますか?」
「あいつがなにかしたのか?」
「はい。車の中で、私、パーカー男の顔を蹴ってしまったんです。それに激昂した男が私に拳銃を突きつけたんですけど、そこをウノさんが助けてくれたんです。まぁ、すぐに頭を殴られて気を失ってしまいましたけど」
コンテナの中で目覚めた時に、頭に痛みを感じたことを思い出す。
「あれは、殴られて気を失っていたのか。ウノが簡単に頭を攻撃されるなんて……やつらしくないな」
「手足を縛られていましたから。あぁでも、ウノさんは簡単にやられちゃったのが恥ずかしくて、覚えていないふりをしてたんですかね……」
「覚えていないふり……?」
なにかが頭の隅に引っかかり、目の前のことに対処することで精いっぱいだった脳が普段通り動き出す。頭の中で生まれたその小さな違和感を逃がさないように、僕は必死に頭を回転させた。
「なんだ。なにに引っかかっているんだ……」
「どうかしましたか?」
文乃への説明は後回しにして、ポケットから立体パズルを取り出す。
「確かに、僕らは別人格と記憶の共有できない。だが、それで理解を諦めるべきじゃない」
高峰星良の血痕が残る立体パズルを一列ずつ回転させる。縦に、横に、六面を揃えては、また色を配置しなおして組み立てる。
「パーカー男が関係なかったと分かった以上、答えはすべて、僕の中にあるはずなんだ……」
指を動かしながら、いつも通り思考を整理していく。
自分で小茉莉は文乃に説明した言葉が、次々と浮かんでくる。
――人間は理由があって自分の中に新しい人格を生み出す。
――人格が表に出てくるこのルールも、脱出のために作られた。
「なぜ第三人格は、このタイミングで表に出てきたんだ」
だんだんと体の痛みが遠く離れていく。視界すら真っ白に近づいている気がした。
「なぜ殺した、なぜ生まれた、なぜ現れた――」
上空から飛行機のエンジン音が降ってきた。地上よりもはるかに大きな音でビル全体を揺らしながら、やがて遠くへ過ぎ去っていく。
「別人格は僕じゃないが、どんな他人よりも僕に近い存在だ。僕が理解してやらないと、第三人格は、一生一人ぼっちじゃないか――」
同時に、立体パズルが完成した。
もちろん、何度も脳内で色を揃えていたが、完成とはそういう意味ではない。
手の中に出来上がった白いキューブの表面で、あの教室で触れた時についた、血の手形が完成していた。あの場で触れた時と、全く同じ配置に戻っていたのだ。
「終わりましたか?」
文乃が僕に問いかけると同時に、自分が置かれている状況を思い出した。
「あぁ、終わりだ。正確な時間は分からないが。もうすぐウノが出てくるだろうな。気配がする」
僕は立ち上がり、床に転がっていたペンキの缶を一つ持って戻ってくる。
「文乃さん。すまない。警察から逃げることを考えると、ここでずっとじっとしてるわけにはいかないんだ」
僕は指を筆代わりにして、ペンキで柱に文字を描いた。ウノへの伝言を読み取った文乃が満足そうに笑う。
「私が頼んだことじゃないですか。気にしないでください」
交代の瞬間が来たことを感覚で悟る。
僕は目を瞑り、ウノへと体を明け渡した。
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