□3-2

[続・文乃6]


 小さい頃の私は、医者である両親の書斎にある医学書を眺めるのが好きだったらしい。平仮名すら満足に読めない頃から、挿絵を目に焼き付けていたそうだ。私にはその時の記憶はないが、両親曰く、なにかに取りつかれているようだった、らしい。

 だが、その勤勉さは、学校では活かされなかった。成績は上がらず、私は両親をひどく失望させた。時には私の体を痛めつけながら説教をする日もあった。

 痛い思いをしたくなくて必死に勉強をしたけれど、それでも成績は上がらず、またぶたれた。

 こんな風にお父さんとお母さんから怒られる私は、出来損ないの人間なのだ思った。だから、こんな私と友達になってくれる人などいるわけがないと、学校の同級生とも距離を置いていた。

 いつも下を向いて、周りと距離をとっていた私に、クラスの人気者だった女の子が声をかけてきたのは三年生になった時だった。

 ――放課後一緒に遊ぼうよ。

 私は嬉しくて、喜び勇んで彼女との待ち合わせ場所である校舎裏へと向かった。

 だがそこには、声をかけてくれた女の子と仲のいい、ほかのクラスメイトたちも待っていた。

 ――お前ちょっとキモいんだよなー。

 彼らは笑いながら、教室の中に私が存在することがいかに迷惑かを語った。

 誰とも目を合わせずにいたのに、それでも私は、彼らから目障りだと責められた。

 最初は軽く小突かれたり、ランドセルを蹴られたりするだけだった。だが、だんだんと興が乗った彼らのボルテージはあがり、そのうちの一人が私に向けて蹴りを繰り出した。

 その時、頭の中でふとした疑問がわいた。

 なぜやり返してはいけないんだろう。

 自問自答を終える前に、私を蹴ろうとした男の子は泣きわめていた。彼がおさえている足は、なぜか足首が背中側に向いていた。

 他の同級生は私を見て怯えていた。覚えているのは彼らに向かって一歩を踏み出したところまでだった。

 気が付くと、その場にいた私以外の全員が地面に横たわっていた。

 医者仲間から、同級生の怪我の具合を聞いた父は、最初カルテのほうを疑ったらしい。小学三年生の女の子にできる範囲をはるかに超えていたからだ。

 ――どこをどうしたら壊れるのか、見えたの……。

 そう答えた私を、両親はおびえたような目で見下した。

 ――なんでこんな才能が……。

 ――違う。これは才能なんかじゃない。呪いだ。

 恐怖からか、自分の娘を悪魔にするわけにはいかないという使命感からか、両親からの指導はよりきつくなっていった。

 ――あなたのためだからね。

 ――お前にあんなことを二度させないようにするのが親の義務だ。

 彼らは私に直接触れることを避けるためか、私への暴力に道具を使い始めた。痛みは増し、同時に私はどこかでそれを寂しく思った。素手で殴られることも、私にとっては家族とのコミュニケーションだったのだ。

 門限を少しでも破ったり、言いつけに抵抗すると、両親はすぐにそれを、あの呪いがまた発揮される前兆なのではないかと捉え、私に指導を加えた。

 私を強姦しようとした男にすら、両親は謝罪した。

 私はただ怖くて、体の動くまま抵抗しただけなの……。そんな言い訳を、世界のどこかにいる星良に向かって、部屋で一人呟いた。

 時折、彼らをあの同級生のようにしてしまいたいという衝動にもかられたが、必死で動いてしまいそうになる体を押さえていた。

 自分が間違っていると分かっていたからだ。

 人を傷つけるのは悪いことだ。そのことに特化した才能は、呪いと呼ぶべきものなのだ。

 ――生むべきじゃなかった。

 ――なんで、私の中からこんな子が……。

 彼らがリビングで漏らしたその言葉を、否定することが私にはできなかった。

 できることなら、私だって人の役に立つ人間に生まれてきたかった。でも、私はこの形で生まれてきてしまったのだ。

 いつもどこかで申し訳ないと思っていた。

 生きているべきではないのだと分かっていた。

 だから、もうここですべてが終わってもいいんだ。

 ただ、最後に、親友の仇だけはとりたい。

 きっと、私の呪いは、今この瞬間のためにあったのだ。

 

 私のつま先がウノの胸部に突き刺さる。腎臓を狙うつもりだったのだが、彼は驚異的な反射神経で、急所を数センチずらした。

「ぐっ……」

 後方に転がって私から距離をとったウノが、胸を押さえて痛みにうめく。おそらく肋骨が折れたのだろう。私の視界の中で、彼がおさえる胸がまた淡く光り出す。呪いが、壊れやすい場所をまた一つ私に示した。

「やっぱりすごいですね。ウノさん。よく動くから、うまく壊せないじゃないですか」

「あんたに言われても褒められた気がしねーな。こんなことができるから、あんたも誘拐犯に目をつけられたのか……」

「そうですね、彼らがどこで私のことの力のことを聞きつけてきたのかは分かりませんけど……。でも、これは、ただの呪いなんです」

 ウノは「へぇ」とだけ相槌を打って立ち上がる。

「なぁなぁなぁなぁ。じゃあさ、大男に拳銃突き付けられた時どうにかできたんでねーの?」

「拳銃を突きつけられるのなんて初めての経験でしたし……。あの場で彼らを壊してしまったら、真相からより遠くなってしまう気がしていたので……」

「あ! じゃあさじゃあさ! パーカー野郎の鼻を折ったのも、偶然じゃなかったってわけか」

「なんで、ちょっと楽しそうなんですか?」

 思い返してみれば、彼は危険に身を置くたびに笑っていたような気がする。それは普段の彼が浮かべる笑顔とは違う、野性的で、心の根源的な部分から湧きあがる笑顔に見えた。

「この人格が、そうできてるからだろ?」

 ウノがフロアの柱を使って三角飛びし、上空からパンチを振り下ろす。今までの攻撃とはリズムが違うものだったが、私の体は自動的にそれを回避した。

「それだけの力があって、なんで親からいじめられてんだよ」

「人を殴るのが好きなわけじゃありません。ほんとはこんな力使いたくないんです……」

 私からの攻撃を受けて傷ついているはずのウノが笑う。

「俺からしたらその力、ただただ、すげーって感想しか出てこねーけどな」

 彼が繰り出した拳が頬をかする。ダメージが積み重なっているはずだが、ウノのスピードは上がっているように見えた。

 それでも、まだ私の直感のほうが彼の動きを上回る。

 彼の攻撃がやむ一瞬の隙に振りかぶった私の膝が彼の頬を捉えた。彼は頭に引っ張られるかのように吹き飛ぶ。

「もう、抵抗しないでください……」

 目の前の人間が星良を刺し殺したのだと知った時に流れた涙が、私の頬をまだ湿らせている。

「傷つけたいわけじゃないんです。あなたを殺したいだけなんです」

 目の前の男の中にある第三人格を、この世界から消し去りたいのだ。

「私は、星良ちゃんのためにできることを、してあげたいんです……。ごめんなさい」

「謝るなって。お互いがお互いのやりたいようにやった結果じゃん」

 ウノは額から流れる血をぬぐう。彼の顔にはまだ笑顔が残っていた。

「文乃ちゃんはずっと耐えてきたんだろ。自分のその才能を押さえつけて、親からの暴力にも耐えて、誘拐されたあとも親友に会えないことを我慢して」

「そうするしか、なかったんです……」

「そんなあんたが、今、大人とかルールとか、そういうもんに渡さずに、自分の復讐を貫こうとしてんだろ。なら謝るなよ。堂々とやればいいじゃん」

 私は今、司法も倫理も飛び越えて、ただ自分の〝わがまま〟を貫いているのだ。その対象であるウノ自身が、誰よりも私の理解者だった。

 コンテナの中で交わしたウノとの会話を思い出す。

 ――でもな、俺からしたら文乃ちゃんも相当だと思うぜ?

 確かにその通りなのだろう。やはり私も彼らと同じように、あの水槽の中で何かが壊れてしまったのだ。

「そう、ですね……」

 私はウノの顔にまっすぐ掌底を打ち込んだ。

「ぐっつ!」

 彼は大の字になって寝転ぶ。荒い息をするたびに、彼の鼻と口から血が流れ出てきた。先ほどまでは攻撃を受けてもすぐに立ち上がっていたが、今回は寝転んだままだった。

「くっそータイムアップだぁー」

 ウノの左手の腕時計が震える。交代の時間が近いことを知らせるバイブレーションだ。まるで帰宅を促すチャイムを聞いた少年のように、彼は名残惜し気に叫んだ。

 ウノが自分の顔の上に腕時計を持っていき、かすれる声をひねり出した。

「サノ、文乃ちゃんは、とんでもねー女だったぜ」

 私は彼の腕を蹴飛ばし、パンプスで腕時計を踏みつける。粉々になった本体から、ボタン電池が床に転がり落ちた。

「容赦ないね」

 彼のためじゃない、自分のためだ。苦しかった。人を傷つけることが、壊すことが。だから、サノにはもう抵抗してほしくなかったのだ。

「サノさんと一緒に、このビルから落ちます。一緒に逝きましょう」

「えー、それ別に嬉しくねーよ?」

 流れる血で染まった彼の顔のなかで、彼の白い歯が浮かび上がった。

「命乞い、しないんですか?」

 トイレで首に手を添えていただけのあの時とは違う。今は本当に、私が彼の命を終わらせようとしているのだ。

「しねーよそんなこと」

 時間を示す時計はもうない。だが、彼の時間が終わろうとしていることは分かった。

 私が絞り出したのは、およそこの状況には似つかわしくない挨拶だった。

「おやすみなさい……」

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