□2-9

  [小茉莉2]


 空野署の取調室は初めてではなかった。以前にも何度か補導されたことがあったからだ。

 だが、今回だけは手の平にかいた汗が、いつまで経っても乾くことはなかった。置かれている状況が過去に体験したことのないものなのだ。

 殺人の容疑者となった友人が、自分の無実を証明するために、真犯人らしき人間を追いかけている。だが、追いかけた相手に逆に捕まり、どこかに連れていかれてしまった。

 私はなにを言うべきで、なにを黙っておくべきなのだろうか。分かっているのは口に出す言葉を慎重に選ばなくてはいけないということだけだ。

「やぁ、待たせたね」

 豊臣が銀色のドアを開けて入室してくる。その手には二人分のお茶があった。正直かなり喉が渇いていたが、自白剤でも入っているのでは、なんて想像をしてしまい、口をつける気にはならなかった。

「灰土くんはまだ捕まってない。でも、総出で行方を追ってるよ」

「あいつらは、人を刺し殺すなんてことせぇへん」

「でも、実際に行方不明だった高峰星良さんの刺殺体が見つかった現場にいたんだよ。返り血を浴びて」

 ここに来るまでの間に、パトカーの中で、ウノとサノが逃げ出した教室の状況を警官から改めて聞かされていた。性格や人柄なんて根拠では覆せない状況であることはよく理解できた。

「小茉莉さんは、ウノくんか、サノくん、どちらかと交際関係にあるのかい?」

「キショいこと言わんといて。さっきも言ったように、ただのビジネスパートナーや」

 豊臣は「ビジネスパートナー」と私の言葉を繰り返した。

「友達でもないのかい?」

「お互いにお互いを利用し合ってるだけや。向こうも、うちのことはそんな風には思ってへん」

「若いのに、ドライなんだね」

 ――だって、お前いつも言ってんじゃん。俺たちはビジネスパートナー。依頼以外じゃ慣れ合わねーって。

 ウノから言われた言葉を思い出す。あれは私を巻き込まないようにする優しさではなかった。ただの事実なのだろう。

「あいつらは、二人ぼっちやねん……」

 陰気なサノはもちろん、陽気なウノでさえ、深く親交を持っている相手はいない。

「友達ってもんが、どんなもんか、自分にとって必要なのかどうかも、分かってへん」

 だから私は彼らを友達とは呼ばない。だがなんでも屋を始める時に〝味方レンタル〟と名付けたのは彼らのほうだった。

 誰かの味方になることで、自分の味方がほしかったのではないか。そんな風に彼らの深層心理を決めつけるのは、私のエゴだろうか。

 豊臣が、こほんと、小さな咳をして、前のめりになった。

「逮捕状の請求が済めば、彼らが指名手配される可能性もある。未成年に対しては慎重になるものだが、関わっている事件が事件だからね。これ以上彼らを庇うと、君もまた、共犯者として、罪に問われる可能性があるのは分かるよね?」

 豊臣が、犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪、と具体的な罪の名称と、その罪が確定した場合に科せられる罰則を説明した。まるで六法全書を読みあげているかのようだった。

「知ってることを、全部話してくれないかな。ただのビジネスパートナーなんだろ?」

「確かに、そのほうが賢いんやろな……」

 今は任意でここへ連れてこられているだけだが、彼らは簡単に私の手に手錠をかけることができるはずなのだ。

「でも、なんでやろな……。まったくその気がおきひん」

 自分でも不思議だった。合理的に考えれば警察に協力するべきなのに、恐怖や不安よりも、意地が勝っている。

 マスクを外す。同時に、豊臣の眉がぴくんと動くのが分かった。

 私の顔には、口元から顎にかけて、大きな傷跡が残っている。私がまだ大阪にいる時に、偶発的な事故によってできた傷だ。

「あいつらはバカやし、ネジ一個吹っ飛んどるけど、いっぺんもうちのこと、キショいだの、怖いだの言うたことないねん。こんな傷、まるで目に入っとらんかのように接してくる……」

 それもまた、気遣いでも優しさでもなかっただろう。ただ彼らもまた、頭の中に大きな傷を抱えていて、普通じゃないことが、普通だったというだけだ。

 でも、人と食事をとることすら怖くなってしまった私にとって、そんな彼らの態度は心地よかった。

「アクチルやから。あの教室にいたから。あいつらのことをなんも知らん癖に犯人だって決めつけてるあんたらより、ただのビジネスパートナーのあいつらのほうが、万倍好きっぽいわ。うち」

 豊臣は小さく何度か頷いてから「素敵な関係だね」とパイプ椅子の背もたれにもたれた。

「すまない、君を見くびってたようだ。怖がらせるような真似をしてしまったね」

 思ってもみない、素直な謝罪だった。

「なんや、脅しがダメなら泣き落としってか」

「違うよ。ただね、ここからは事実だけを君に伝えようと思ってね」

 豊臣は足元に置いていた書類鞄から、一冊のファイルを取り出した。

「彼らのことを大事に思うなればこそ、君は僕らに協力するべきなんだ」

 皺の入った指で、豊臣が青い表紙をめくる。そこには、数枚の写真がファイリングされていた。

 全身に鳥肌が立つのを感じる。まるで氷水の中に放り込まれたようだった。

「なんやねん……これ……!」

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