□2-7

   [サノ5]


 気が付くと、僕の体は冷たい床に横たわっていた。体を起こすと、頭にずきんと痛みが走る。頭痛ではなく、誰かに殴られたかのような痛みだった。

「目が覚めたんですね……。あ、足元メガネが落ちているので、踏まないようにしてくださいね」

 僕の両手は結束バンドで拘束されていて、メガネをかけるのにも手間取った。一度弦の先で自分の目を刺してしまう。

「ここは……?」

「橋の下でパーカー男を追い詰めたんですけど、彼には仲間がいたみたいで……。しかも、拳銃を持っていて、何もできずに捕まってしまったんです。それでここに連れてこられました」

 あたりを見回す。最初は倉庫かと思ったが、僕たちを取り囲んでいる棚は、工事用の足場を流用したもののようだった。そこに積まれているペンキの缶やセメント袋の隙間からは、波打った鉄製の壁が見えた。僕らは貨物コンテナの中にいるようだ。

「僕は気を失っていたのか」

「はい。一時間ほど。気絶している間も、人格は入れ替わってるんですね」

 文乃はここへ運ばれてくる車内で、ウノが「その冷麺は俺のもんだ」と寝言を口にしていたことを説明した。

「なんでこの状況でそんな呑気な夢を見られるんだ、あいつは」

「車で運ばれている間は目隠しをさせられていたの地名までは分かりませんが、ここはどこかにある建築中のビルみたいです」

「ビル?」

 体育座りをしたまま尻をずるずると滑らせて、コンテナの出入口部分まで移動する。数センチのすき間が開いていたが、両開きの扉は鎖かなにかで繋がれていた。

 すき間から外を覗く。一番奥に見えたのは夜空だ。まだこの階の壁は作られていないらしく、フロアの周囲は簡易的なオレンジ色の柵で囲われているだけだった。床も打ちっぱなしのコンクリートが広がり、等間隔に柱がたっているだけだ。見える範囲だけでも、体育館ほどの広さがあった。

「うぅ、いてぇ……鼻が……いてぇ……」

「黙ってろ! うるせぇぞ新人」

「こいつを使うのは反対だったんだよ俺は」

「しょうがねぇだろ、ほかに使えるやつがいなかったんだから」

 工事用のエレベーターの前に四人の男がいた。三人はスーツを着ていて、残りの一人はパーカー男だ。積まれた鉄骨や資材をベンチ代わりにしながら、全員そろってタバコをふかしている。

「あの人たちはなんなんでしょうか?」

「僕も分からない。だが、なんらかの違法な集団組織だろうな。それに捕まっているという状況はまずい」

「星良ちゃんを殺したのは……あの人たちなんでしょうか?」

「だとしたら、君の復讐の難易度は一気に跳ね上がるな」

 半ば冗談のつもりで言ったのだが、文乃は表情を崩すことはなかった。

「それでも、もしあの人たちが犯人だと分かれば、私は許しません……」

 寒気を感じる。高層階の冷たい空気だけが原因ではない。彼女の強い決意を僕は恐れているのだ。

「僕は第三人格なんてものに心当たりはない。突然第三人格が現れて、アクチルを殺していた、なんて仮説より、やつらが僕らに罪を着せようとしているという線のほうが有力だと思ってる」

 文乃は唇を噛みながら棚の一つに体重を預けた。ここへ運ばれて来る間に、顔や服が汚れたのだろうが、それは彼女自身の疲労を現しているようにも見えた。僕とウノが二等分している時間を彼女は全て体験しているのだ。

「君の中では、僕らは、今も第一容疑者か?」

 文乃は力なく、息を吐き出すように答えた。

「分かりません……」

 彼女は自分の内側で抜き身の刀のような感情を必死に抑えているのだ。

「サノさんには、いないんですか?」

「なにがだ?」

「大切な人、です……」

「いないな」

 記憶を掘り返すまでもなかった。

「アクチルだということは指し引いても、自分が世界と、ずれていることは自覚している。当たり前にできることができず、人の気持ちを理解できない。誰かと親密な関係を築くことが難しいと分かっているし、するつもりもなかった。君のように、仇をとろうと思えるほど、深い関係性の人間はいないよ」

「寂しくはないんですか?」

 寂しい。その感情について考えることがそもそもなかった。

「さっきトイレで君に言ったように、僕は人の優しさや思いやりなんて不確定なものを信じる機能がない。だから、僕も人に優しさと思いやりを分け与えることができないんだ」

 文乃は小さく笑って、手首に巻かれた結束バンドの位置をずらした。彼女の手首にくっきりとバンドの跡が残っている。

「小茉莉さんが言ってました。あなたたちは〝二人ぼっち〟なんだと。今は、その言葉の意味が少し深く分かる気がします」

 二人ぼっち。矛盾した表現を気持ち悪くも感じるが、確かに間違っていない。水槽を子宮代わりに生まれた僕らは、この世界に適合できていない。

「そういう私も、人付き合いなんて大の苦手だったんですけどね。私なんかが人と関わっていいわけがないって思ってました。あの水槽で星良ちゃんと出会えて少しだけ変われたとは思っていたんですけど……」

 彼女は「でも……」と声を低くする。

「親友だって思ってたのは私だけだったのかもしれませんね……」

 廃校の教室に高峰星良が来た時のことを思い出す。彼女は、水槽での出来事を、如月文乃の存在を忘れてしまっていた。

「星良ちゃんにとっては、私の存在なんて大した意味はなかったのかもしれません」

「なら、復讐なんてやめればいい」

 文乃はゆっくりと首を横に振った。

「やめません。私にとって大切な存在だったことには変わりありませんから」

「理解しがたいな。人の繋がりというのは……」

 呆れながら彼女から視線を逸らすと、手首の腕時計が目にはいった。彼らが没収していたのは僕のバッグだけらしい。

「僕のパズルは?」

「あれは没収されてしまいましたよ」

「くそ……」

 時計を確認すると、僕の時間はまだ五分ほど残っていた。

「だが、大したことのない連中だな」

「なぜです?」

「こんな場所に監禁するなんて、脱走してくださいって言ってるようなものだ」

 文乃はコンテナの中をぐるりと見回した。

「カッターやハサミのようなものは見当たりませんけど……」

「そんなことないさ、あの水槽に比べたら、宝の山だ」

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