□2-3

  [サノ4]


「交渉成立だな……」

 文乃が僕の上から体をどかす。腹を圧迫されている間にはできなかった深呼吸を一度だけ行い立ち上がる。

 最初に実行したのは、手洗い場にあるアルコール消毒液による殺菌だ。両手と首の裏側、床と触れ合っていた肌に塗りたくる。

「なんでトイレなんだ。くそ。あぁ、汚い……」

『まさか殺菌でもしてんのか? こんな時くらい潔癖我慢しいや』

 噴霧音から僕の行動に気がついた小茉莉に注意されるが、肉体の衛生面は精神衛生にも影響するのだ。なんなら血のついたシャツと腕もきれいに掃除したいくらいだった。

 最低限の殺菌を終えてから、バッグを肩にかけ、メガネを装着する。

「僕はパーカー男を追う。その男は改札を通ったんだな」

『そこまでは分からん……』

「ウノさんは、改札の向こう側を見つめていましたよ」

 ずれていた前髪のアメピンを直していたので、文乃の表情はよく見えなかった。ただ、声にはまだ敵意が残っている。無理もない、彼女にとって僕とウノは、親友殺しの第一容疑者なのだ。

「私も一瞬だけそのグレーのパーカーを着た人を見ました」

「充分だ」

 便器の上部に置かれていた、予備のトイレットペーパーを掴んでトイレを飛び出す。

「それ、なんに使うんですか?」

「切符を買っている時間はない」

 改札の前へと移動し、トイレットペーパーを人が行きかう通路に向かって転がす。ボウリングなら間違いなくガーターになるような軌道だったが、歩きながらスマホをいじっている若者が、トイレットペーパーを踏みつけて、ひっくり返った。

「いってぇ!」

 派手に転んだ男に周囲の視線が集まる。改札の駅員も同様だった。その隙に、僕と文乃は改札機の横の柵を乗り越える。

「上りでしょうか、下りでしょうか……」

「ウノとトイレに入っている間、電車は来たか?」

「多分、来なかったと思いますけど……」

 文乃の曖昧な答えをすぐさま小茉莉が補足した。

『調べた時刻表には、さっきの間に出た電車はないで』

「なら次に出発する電車がくるホームだ」

 ウノに追われている状況で、わざわざ自分のいきたい方向の電車を待つようなことはしないだろう。

 下り線の階段を降りると、ちょうど車両がホームへと入ってくるタイミングだった。ホームはまっすぐで、奥まで電車を待つ人たちの姿は見通せた。しかし、グレーのパーカーを着た男は見当たらない。

「いませんね……」

「こんな閉鎖的な空間になぜやつは逃げ込んだんだ……?」

 僕はホームの中央に設置された銀色のゴミ箱をのぞき込む。そこにグレーのパーカーを見つけた。

「これって……」

「とってくれ」

 文乃がけげんな表情を僕に向ける。

「僕が、ゴミ箱に手を突っ込めるわけないだろう」

 文乃はゴミ箱からパーカーを引っ張りだす。彼女に確認すると、それは廃校から逃げ出した男が着ていたものと同じ色のようだった。

「くそ……。これが狙いか」

 閉ざされた空間に入り込んだのは、多くの人間の中に紛れ込むためだったのだ。おそらく体力バカのウノを、走力で振り切れずに選んだ苦肉の策だったのだろう。

 構内にアナウンスが響き、やがて電車が滑り込んでくる。甲高いブレーキ音を立てながら止まった車両に、列を作っていた客がぞろぞろと乗り込んでいく。

 ホームに残る人間はいなかったので、ドアが閉まる間際に僕と文乃も飛び込む。

「パーカー男の下半身の服装は見たか?」

「いいえ、そこまでは……。少なくとも、スカートではなかったと思いますけど……」

 六両編成。座席の約八割が埋まっていることを考えると、この中にはおそらく二百人近い乗客がいる。

「この中から、見つけ出せるんですか……?」

 僕はなにも言わなかったが、文乃はすぐに「私が引き留めなければ、見失わなかったって言いたいんでしょうけど」と手に持ったままの脱ぎ捨てられたパーカーを握りしめた。

「しかも、次の駅に着くまでに割り出さないといけないな」

 出入口の上部に設置されたモニターには、三分後に次の駅へ到着すると表示されている。パーカー男はそこで、下車するか乗ったままでいるか、好きなほうを選べる。だが、僕らはその二択を間違えたら、彼を取り逃すことになってしまうのだ。できれば、挑みたくない賭けだ。

『地下鉄やと通信が……』

 車両が加速すると同時に、小茉莉との通信が切れた。

 僕はズボンのポケットから立体パズルを取り出す。血の手形がついていて真っ白ではなかったが、構わずいつもの作業を開始する。

「僕らが今いる車両をA、一番奥の車両をFとしよう」

「え?」

「独り言だと思って聞き流してくれればいい」

 手元で立体パズルをいじる。淡々と響くパズルの音をリズム代わりにして思考を加速させていく。

「おそらくホームに降り立った時点で、やつはパーカーを脱ぎ捨てた。その際に自分の後ろにウノの姿がなくなったことを確認しただろうが、上着を脱いだすぐに近くの列に紛れるとは考えにくい。ABCの車両にはいない。やつは、奥の三両にいる百人の中だ」

 車両の振動に足を取られながら、僕は座席の間を通って、前三両へと移動する。

「心理的に一番奥も選びにくいだろう。極端性回避の法則だ」

「極端性回避?」

「いくつかの選択肢を提示された時、人間は両極端のものを知らないうちに避けてしまうという心の動きだ。だからFも除外する。これで残りはこの車両Dか車両Eだ」

「それでも、まだ六十人くらいいますけど……」

「女性の可能性は捨てられないが、スカートを身に着けている人は除外できる。これで残りは四十人。カモフラージュのために他人の荷物を盗むのはリスキーだ。それもしてないと仮定すると、大きな荷物を持っている人間は除外していい。それにあれだけの距離、ウノと追いかけっこをできた人間だから、五十代以上、極端な肥満体型の人間も除外だ」

「それでもまだ、十人くらいいそうですけど……」

 条件に合致する人間を順に眺めるが、こちらに視線を向けるようなミスは望めそうになかった。

 文乃の持つパーカーへと目をやり、その後もう一度車両を眺める。

『間もなく、国丘。国丘』

 次の停車駅を知らせるアナウンスが響いた。

「どうするんですか!」

「大丈夫。もう分かった」

 僕は立体パズルをポケットにしまい、車両Dの一番奥、優先座席に座る二十台前後の男の前に立つ。

「君がパーカー男だ」

 話しかけると、男はいじっていたスマホから目を離してこちらを見上げた。

 男は頭の毛をすべて剃っているスキンヘッドヘアーで、タンクトップから出ている肩には炎を模した入れ墨が入っていた。

「な、なな、なにかようですか?」

 男は舌をもつれさせながら苦笑いした。

「なぜあの廃校にいた。答えろ」

「は、廃校? なんの話?」

 文乃が後ろから不安そうに僕に囁く。

「本当にこの人なんですか?」

「間違いない」

 僕は文乃から、パーカーを受け取り、彼女の鼻に近づける。

「パーカーからタバコの匂いがするだろ。着ていたのは喫煙者だ。歯の黄ばみからいってこの男もそうだ。それにタンクトップに汗がにじんでいる。ついさっきまで走っていた証拠だ。それにズボンについている葉っぱ、これはセンダンの木の葉だ。廃校の敷地内にも同じ樹木が植えられている」

「違う。違います。人違いです……、人違いすぎる……」

 僕が根拠を口にするたびに、男のスキンヘッドにぶつぶつと汗がにじみ出てきた。

「パーカーの中に財布と免許証が残っていた。それで顔は丸わかりだ」

 男は反射的に自分のズボンのポケットをたたき、そこに財布があることを確認した。

「正解みたいだな」

 電車が減速して駅のホームへと滑り込む。なんとか到着までにパーカー男を見つけることができた。

 パーカーを投げ返すと、男はまるで子供がぬいぐるみを手放すまいとするかのように、パーカーを抱きしめた。

「見つかった、見つかった。やばいやばいやばいぃー!」

 パーカー男が、僕の腹に向かって頭突きを繰り出す。座っている状態からの攻撃で威力はなかったが、それでも突然の攻撃に僕は向かいの座席まで後退させられる。

「ごめごめ、ごめんなさーい!」

 パーカー男が電車を飛び出し、ホームの階段を駆け上がっていく。

「サノさん、早く立って!」

「分かってる……」

 ドアが閉まる寸前のタイミングで、僕と文乃も下車する。

 階段を登りきると、男はすでに改札を通り抜けていた。

「スイカちゃんとしてまぁーす!」

 ICカードをしっかりと叩きつけていたものの、半狂乱のスキンヘッドの男にまわりの視線は集中した。その隙に僕と文乃も改札を乗り越える。

「見つけてからの作戦はなかったんですか?」

「どっかの誰かにトイレで足止めをくらったからな」

 皮肉たっぷりの返答をしてみせたが、僕は右足と左足を絡ませて転ぶ。すぐ後ろにいた文乃も、僕の体に足を引っかけて転んだ。

「は、走ることもちゃんと、できないんですか?」

「人格が変わっても、疲労は蓄積されているんだ……。無理を言わないでくれ」

 立ち上がっている間に、パーカー男は駅の構内を飛び出してしまった。

「見失っちゃったじゃないですか!」

 僕は転んだ拍子に外れていたヘッドセット型の通信機を、袖で汚れをふき取ってから耳につけなおす。

「小茉莉、聞いてたか?」

 僕の質問に、小茉莉からすぐにレスポンスが入る。

『駅についてからは聞こえてたで。サノ、またこけたん?』

「それより、僕のスマホの位置情報を調べてくれ」

『そんなんしたって、あんたの居場所が表示されるだけやん!』

「いや、あいつのパーカーのポケットにスマホをいれて返した。気づかれるまでは追跡できる」

「いつの間に……」

 僕と文乃がパーカー男の出ていった南口へと移動する間に、小茉莉は位置情報の特定を終えていた。

『とりあえずまっすぐや! 今は、百貨店の前の道を走っとる』

 小茉莉の指示に従いながら、パーカー男のあとを追う。やつは僕らから逃げ切ったと安心して徒歩移動に切り替えたらしい。小茉莉が指示する地点と僕らの距離はどんどんと近づいていく。

「あの人、ちょっと変わってた人でしたね」

「確かにろれつも回っていなかったし、違法な薬物を使っていても驚かないな」

 文乃はくしゃっと顔を歪めた。

「どうした? どこか痛めたか?」

「違います。ただ、もしあの人が星良ちゃんをって考えると……、怖かっただろうなって……」

「仮定の話なら、あとにしてくれ」

「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか……!」

 先ほどまで彼女がパーカー男に向けていた敵意が、今度は僕へと向けられる。

『この冷血頭でっかちマン。気遣いっちゅーもんがあるやろ』

 僕への説教の途中で、小茉莉が声を一際大きくする。

『あ! 動きが止まったで! 二十メートル先! スマホの位置情報はそこで止まってる!』

 僕らは四車線の道路が通っている橋の上にいた。だが、正面にも、道路を挟んだ対向車線側の歩道にもパーカー男の姿はない。オレンジ色の街頭の明かりが橋を照らしていて歩行者の服の色は判断しづらいが、特徴的なあの男を見つけられないほど混雑しているわけでもなかった。

「ほんとうにここか? 橋を渡って向こう側にいったわけじゃないのか?」

『そこや! 間違いない。橋の上でマークは停まってんで』

「でも、いませんよ? まさか、スマホだけ捨てて逃げちゃったとか?」

「いや、違う……」

 腕時計を確認する。あと数十秒で八時半だった。

「ここからは、ウノに任せるか」

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