□2-1

□Ⅱ

   [ウノ3]


 つま先がなにかにぶつかり鈍い音を立てた。見下ろすと、そこには血のついたナイフが転がっている。手の平を見ると、そこにはナイフの柄についた滑り止め用の斑点と同じ模様が赤く残っていた。

「なんじゃこりゃ」

 自分の置かれている状況が理解できない。

 確か三十分前の俺は、校門が見える場所で高峰星良がやってくるのを待っていた。だが、今、目の前ではその高峰星良が死んでいる。

 死体の腹から流れる血が、教室のフローリングの上を広がりながら、じわりと俺のほうに迫ってくる。

「サノのドッキリ……、でもなさそうだなこれは」

 ぽりぽりと頭をかくと、自分の左腕についた血が、文字の形をしているのに気が付く。

「三人目が、殺した……? どういうこっちゃこりゃ」

 教室の外で光の筋がサーチライトのように揺れながら、俺のいる教室へと近づいてくる。 

「警察です! どなたかいらっしゃいますか!」

 目の前の死体。血まみれの自分。この状況で、最も聞きたくない職業の名前だ。  セリフだけ聞けばこちらを心配しているようだが、明らかに声には警戒心が混じっている。

「どなたかいらっしゃいますか!」

「そりゃ、いるけどよ……」

 繰り返し叫ばれる野太い声が、どんどん近づいてきている。

「警察です!」

 隣の教室の扉が勢いよく開かれる。その振動が床ごしに伝わってきた。

「誰もいません」

「なら次だ」

 また廊下で懐中電灯の光が揺れ、今度は完全に俺のいる教室へと狙いを合わせた。

「さて、どうしたもんかね」

 俺は手首の腕時計を持ち上げ、デジタル表示盤の下部にある小さなをボタン押し込んだ。腕時計に仕込まれた小型スピーカーから、サノの時間に録音された音声が流れる。

 俺の鼓膜を、一分前の自分が叫んだ言葉が揺らす。

 サノの声は普段と比べてわずかに上ずっていたが、迷いや戸惑いは感じさせない端的な指示だった。

『ウノ! とにかく、逃げろ――!』

 短いメッセージが途切れると同時に、がらりと教室の扉が開かれる。

「これは、どうなってるんだ……!」

 彼らは窓際の死体に驚いてから、説明を求めるかのように俺へと視線を向けた。

「俺も知らん! まじで!」

「知らんって……、君、服に血がついているぞ……」

 中年の警官が腰の警棒を手に取る。もう一人の若い警官に教室後方の扉へと回り込むように指示した。

「一階の教室に血を流している女性と、眠っている女性、そして、男性が一名! 至急応援をお願いします! 窓の外も固めてください!」

 肩の無線機から口を離して、中年警官がこちらを睨み付ける。

「いいか、じっとしてろ。両手を上にあげるんだ。手で狐を作るな!」

 一度は指示に従って両手をあげたが、中年警官が、後ろの若い警官に目配せをした瞬間に走り出す。

「おい! 動くなと言っただろ!」

 駆け寄った窓から顔を出して外をのぞき込むと、校舎の両側に警官の懐中電灯が揺れているのが見えた。

「逃げられんぞ! 大人しくしてろ!」

 教室の扉を固める警官に突っ込んで無理矢理突破してもよかったのだが、もっと簡単な方法を思いつく。

「右も左もダメなら……」

 窓枠に足をかけて、校舎の壁に取り付けられた雨樋のパイプに飛びつく。

「上!」

 パイプをはしご代わりにして上の階へと登り、二階の教室の窓を蹴飛ばす。劣化していたガラスは、おせんべいのように簡単に割れた。

「上だ! 上にいったぞー!」

 下で叫んでいる警官たちを無視して、俺は二階の教室の中へと体を滑り込ませる。

「そうだ。昔作ったアレが役に立つじゃん」

 教室を飛び出して廊下を走り抜ける。校舎の真ん中に通っている階段へたどり着くと、最初に対峙した警官の声がした。

「上だ! 追い詰めろ!」

「盛り上がってきたなーおい」

 思わず口元がにやける。こんな緊迫感のある鬼ごっこは久しぶりだった。

 階段を下ではなく上に登っていく。三階も四階も通り過ぎ、屋上へと繋がる扉を蹴り開ける。

「どっちにいった!」

「焦るな! ゆっくり網を広げて追い詰めればいい!」

 階段の下では、警官が連携を取りながらこちらに迫ってきている。

「そんな呑気なこと言ってていいのかなー?」

 俺は屋上の角へ向かって走りながら、肩掛けバッグを漁る。確か寒がりなサノが、コンパクトに折り畳めるジャケットを常備しているはずだった。

「おっしゃ、やっぱあるじゃん」

 屋上のフェンスを乗り越える。校舎の淵に立つと、学校の校門あたりにパトカーや、警官の自転車が停まっているのが見えた。そこにも何人か警官が待機しているが、こちらに気がついてはいない。

「ちょっと見てほしいとこもあるけどな」

 フェンスに結び付けられたロープを掴む。それはぴんと貼っていて、もう片方は敷地の端に生えている木の幹に結び付けられている。

 ――僕は絶対やらないからな!

 小茉莉と脱出手段としてこのロープを用意しているときに、サノが時計に残していたメッセージを思い出した。

「俺はむしろやりたかったけどな!」

 バッグから取り出したジャケットをぐるぐると両手に巻き付けてからロープを掴む。思わず声が出そうになるのを押さえながら、なにもない宙に向けて飛び出す。俺の体は重力に引っ張られながら、ロープに沿って滑空を始めた。

「うおぉお!」

 人間ロープウェイとなって滑り落ちていく。手に巻いたジャケット越しに摩擦熱を感じたが、手の平がやけどする間もなく、俺の体は地面へとたどり着いた。

「うわー、もっかいやりてー!」

 最高のアトラクションに後ろ髪を引かれながら、敷地沿いに設置されたフェンスへと走る。ワイヤーを切ってあらかじめ作っていた穴をくぐり、俺は無事に廃校の敷地内からの脱出を果たす。

「もっと逃げねぇとダメだよな……」

 校舎の中からは、警官の声と懐中電灯の光が漏れている。

「つってもどこにいきゃいいんだ……」

 左右を交互に眺めていると、十メートルほど右側でがさがさと枝が揺れた。警官が追ってきたのかと音のしたほうに目を凝らすと、フェンスの上から人影が落ちてきた。

「誰だありゃ……」

 両足で身軽に地面に着地した男は、警官ではなかった。

 グレーのパーカーを着ていて、フードで頭まで隠している。

 男と目が合う。いや、フードのつくる影で顔面が真っ黒になっているので、こちらからは相手の目は見えていない。だが、顔はまっすぐにこちらに向けられていて、お互いにお互いを認識したことは分かった。


  *


「お前……」

 話しかけようとすると、パーカーを着た男は俺とは逆方向に走りだした。

「おい、待てって!」

 反射的にあとを追いかけてしまったが、おそらくこの判断は間違ってはいないはずだ。あの状況であの学校から飛び出してきたのだから、俺とサノ、さらには死んでいた女の子と無関係なはずはない。

 それに逃げるのはやましい理由があるからだろう。

「まさか、あいつが……」

 手に持っていたジャケットが煩わしいのでシャツの上に羽織る。ちょうど服についていた血と、腕に描かれた謎の血文字を隠してくれた。

「お?」

 さらにもう一つ、ラッキーな発見をする。ジャケットのポケットにヘッドセット型の通信機が入っていたのだ。

「おーもしかしてこれ繋がってたりするのか?」

 ヘッドセットを耳につけて話しかけると、がさがさとした雑音の後で、小茉莉の声が帰ってきた。

『ウノ⁉ ウノなんか⁉』

 声が所々裏返っている。小茉莉もかなり焦っているようだ。

『なにがどうなってんねん! 学校いったら警官がめっちゃおってびびったわ。なんや、星良ちゃんを引き渡すために呼んだんか? 星良ちゃんは誰にも言うな言うてたやん』

「俺もなにがなんだか分かんねーんだよ」

 俺はサノと入れ替わってから見た光景、サノからの指示、そして、今、俺と同じタイミングで学校から出てきたパーカー男のあとを追いかけていることを説明する。

『は? 星良ちゃんが、死んでて、あんたに返り血って……。あんた、こ、殺したんか! 星良ちゃんを!』

「そうなのかな? 見た感じそうだったけどなー。はっはっは」

『じゃあ、サノが殺したんか?』

「そんな度胸あいつにねーだろ。それに、声を聞いた限りじゃ、あいつも驚いていたみてーだったけどな」

 小茉莉はぶつぶつと通信機のマイクも拾えない独り言をつぶやいてから、また俺に話しかけてきた。

『でも、とにかく、そのパーカー男は怪しいのは確かやな……なにがあったんか知ってるかもやし、話を聞いてみよや』

「だから今まさに追ってんだって」

 パーカー男が、民家に停まっている軽自動車を踏み台にして、コンクリート塀へと飛び乗る。そこから、庭のプレハブ倉庫、電信柱から出ている鉄筋を足場代わりにしながら、民家の屋根へと飛び乗った。

「うお、サルかよ……!」

 俺も全く同じ行程をたどって、屋根に飛び乗る。その時、パーカー男はすでに民家の向こう側の道へと降り立つところだった。

「逃がさねーぞ」

 パーカー男の足は速かった。こっちが小茉莉と話しながら走っていることを差し引いても、これだけ走って俺が距離を詰められない相手は珍しい。

「あれ、てか小茉莉、俺と通信なんてしてねーほうがいいんじゃねーの?」

『なんでやねん』

「だって、お前いつも言ってんじゃん。俺たちはビジネスパートナー。依頼以外じゃ慣れ合わねーって」

 小茉莉が反射的に「そんなん……」と叫んでから、言葉を飲み込んだ。

『確かにそやけど、ビジネスができんくなるのは困るからや。状況が分かるまでは特別に手伝うたる……』

 パーカー男が人通りの多いビジネス街へと出る。歩いているサラリーマンやOLによってパーカー男の姿は見えなくなったが、人影の向こう側で、誰かとぶつかり驚く女性の声がした。

「あっちか」

 歩道脇の花壇へと昇って確認すると、パーカー男が地下鉄の入口へ飛び込むのが見えた。

「駅に入ったな」

 地下へと繋がる階段を降りる。駅の構内は外よりもさらに人口密度が高かったが、集中して視線を滑らすと、改札の向こう側にパーカー男の背中を見つけることができた。

「みっけ……! ぐっ!」

 再スタートのために足を踏み出した瞬間、真横からなにかに突き飛ばされる。不安定な体勢で衝撃を受けたせいで、俺はその先にあった障碍者用のトイレへ転がり込む。

「いってて……」

 打ち付けた後頭部をさすっていると、トイレのドアが閉められた。

 そこに立っているのは如月文乃だった。頬をつたう汗を拭くこともせずに、俺を見下ろしている。

「文乃ちゃん? おっ……」

 彼女は床に横たわる俺の上に馬乗りになった。重さは大したことはなかったが、彼女のお尻がみぞおちに入って、一瞬だけ息が詰まった。

『ウノ? どしたん? 文乃ちゃんがそこにおるんか?』

「おう、まさに真上にな」

 文乃は震える手をゆっくりと持ち上げて、両手の平を、俺の首へとあてがった。

「なんで……」

 長い前髪の隙間から見える彼女の目は、数日前に見た不安を宿したものとは全く違った。小さく絞られた瞳孔から、物理的に突き刺されているように錯覚するほどの敵意がこもった視線を感じる。

「なんで! 星良ちゃんを……‼」

 俺の首にあてられた彼女の指はひんやりと冷たく、まるでナイフをあてがわれているようだった。


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