□1-8
[サノ3]
意識が切り替わる。僕はいつもの教室ではなく昇降口の傘立てに座っていた。足元には色とりどりの風船の残骸が落ちている。おそらくウノがダックスフントをマスターしようとして失敗した跡なのだろうが、アートバルーンの練習をするなら教室で事足りるはずだ。まだ九月とはいえ、夜の七時ともなると、照明のない昇降口は暗くて手元がよく見えない。
腕時計を確認する。デジタル表示の文字盤の上のライトが点滅していた。
『あーサノ。ダックスフントめっちゃ難しいわー。ねじってっと、どうしても長さが足りなくなるんだよー。まぁ、また次の番で頑張るわ。じゃあな』
不必要な情報をひとしきりしゃべったあとで、またウノの声が流れ始める。
『あ、言い忘れてた。なんかな、小茉莉から連絡があったんだよ。あの行方不明の高なんだかちゃんが、ここに来るらしいぞ』
ウノはそのために校門の見えるこの昇降口で待機していたのだろう。
「高峰星良が?」
ここ二日間小茉莉が彼女を捜しているとは聞いていたが、この展開は想像していなかった。
スマホを確認すると、小茉莉から詳しい状況がメールされていた。そこには、僕らが捜していることを知った高峰星良本人から連絡が来たのだとあった。
「僕は別に捜してないが……」
小茉莉のネットワークは過去の依頼人を中心にしている。おそらく小茉莉が探しているというより、僕らが捜していると話したほうが、情報の広がりが見込めると踏んだのだろう。
どうせいたずらだろうと思っていたが、数分後、僕は昇降口に人影を見つけた。
深くかぶったキャップの下に見える少女の顔は、ニュースで見た高峰星良の写真と同じだった。
「嘘だろ……」
校門まで迎えに出て声をかけると。彼女は飛び上がりそうな勢いでこちらを振り向いた。
「あ、あなたが、灰土さん、ですか……?」
頷くと、彼女は突然僕の体に飛びついた。彼女の被っているキャップのツバが、僕のメガネとぶつかりあう。
「ちょ、ちょ……! な、なにを! 突然!」
「私! あなたに助けてほしくて!」
正面のソファに座る彼女をもう一度確認する。
ぱっちりとした目、高い鼻。キャップを外した状態で確かめてもやはり、彼女は高峰星良本人のようだった。
ただニュースでみた写真と違うのは、その表情だった。彼女は何度もあたりをきょろきょろと眺めながら、なにかにおびえるように自分の体を腕で抱きしめていた。
「あ、あの、私がここにくるのは、誰にも、見られてませんよね……?」
「おそらく。僕があなたを迎えたのは校門なので、それよりも前のことは分かりませんが」
断言しない僕の返答に、彼女はまたあたりを確認した。
「仲間からはあなたが自分でここにくる。という簡単な連絡しか受けていないんですが、高峰さんは、どういう経緯でここに?」
高峰星良は自分のジーンズをきゅっと握りしめる。
「あなたは、あの、アクアリウムチルドレンの灰土さんで、間違いないんですよね?」
僕が頷き返すと、彼女はまじまじと僕の顔を眺め始めた。
「あの、この空野市に、アクアリウムチルドレンが多く住んでいることはご存知ですか?」
話題の転換が不自然だったが、おびえている彼女がようやく話し始めたのを遮ることはできなかった。
「正確な人数は知りません。でも、アクチルの援助をする法人が紹介してくれたのがこの街の物件だったので、元の生活に戻れなかった子供が、自然とこの近くに集まってはいるんだろうなとは予想していました」
高峰星良は「やっぱり、すごい賢いんですね」と大げさな反応をしてみせた。
「私は父から、十人以上のアクアリウムチルドレンが東京にいて、その中のほとんどが、この街に住んでいることを聞いていました」
もともと誘拐された子供のほとんどが、首都圏に住んでいたことを考えると、驚くほどの数字ではなかった。
「そんな中で、実はしばらく前から、あなたたちの噂は耳にしてたんです。困った時に助けてくれる、二重人格の高校生がいるって……。その噂を聞いた時、私直感的に思いました。あぁ、私たちを助けてくれたヒーローなんだって!」
「ヒーロー?」
「私はそう思っています! 人格を二つにわけてまであの地獄から抜け出して、警察を呼んでくれたんですから!」
高峰星良もまた、文乃と同じく、僕らがあの水族館から最初に脱出したことを聞いていたらしい。崇拝の混じった視線を向けられるが、正直居心地は悪かった。
「僕もウノも、自分のためにやっただけです。僕以外の天才児、絵画の天才である高峰星良さんが誘拐されていることも犯人たちの会話から知っていましたが、ほかの子供たちのために脱出しよう。なんてことは微塵も考えてませんでしたよ」
星良はゆっくりと首を横に振った。
「それでも、あなたは私のヒーローです。だから私、一週間前からあなたを捜してたんです!」
一週間前というと、彼女が失踪した日だ。
「そしたら、最近あなたたちのほうが私を捜しているんだって噂を耳にして……」
「それで小茉莉に連絡を取って、ここに来たわけですか」
星良は今度は縦に頷く。
「正確に言えば捜してたのは僕じゃないです。如月文乃さんというアクチルがあなたを捜していて、それを小茉莉が手伝っただけで」
「如月文乃……?」
星良は口元に手を当ててなにかを考え始めた。
「あなたの隣で監禁されていて、あなたとパイプ越しに話し合って、友達だったそうですけど……覚えてないんですか?」
「すいません……」
星良は申し訳なさそうに目元に手をやり、うつむく。
「あの時のことは、よく覚えていなくて。医者からも精神的ショックのせいで、記憶障害が出ているんだろうって言われてるんです……」
確かに幼い子供たちにとって、あの体験はそれだけの恐怖を伴うものだった。この体が新たな人格を生み出したように、ほかのアクチルにも様々な変化が起きていてもおかしくはない。
「彼女も今、ここに向かっているようです。すぐにそのうち……」
同時に教室前方の扉が開かれた。そこには、汗だくの文乃が立っていた。
「あぁ……」
彼女はふらふらと歩きながら、ソファに座る星良にすがりついた。
「よかった! 星良ちゃん! 無事だったんだね! 私、もしかしたら、死んじゃったんじゃないかって、ずっと!」
自分の手を強く握りしめる文乃を、星良は困ったように眺めていた。
「私だよ! 如月文乃! 覚えてない?」
「あの、ごめんなさい、私、当時の記憶が、あまり残ってなくて……」
「事件のトラウマのせいらしい」
星良の言葉と、僕の補足を聞いた文乃は一瞬脱力した。しかし、すぐにその眼に力を取り戻す。
「そっか。だから、連絡とれなかったのかな……」
連絡をしなかったのではなく、できなかった。その事実は文乃にとってポジティブなものなのだ。
「でもいいの。あなたが元気だったなら、それだけでよくて……」
文乃が自分の額を星良に手に添える。まるで祈りでも捧げているかのようだった。
「文乃さん、すまないが、ウノに代わる前に、もう少しだけ星良さんと話してもいいか?」
文乃は戸惑ったような表情を浮かべる。自分でも再会に水を差していることは分かっていたが、僕と文乃の安全にもかかわる重要なことなのだ。
「星良さん、あなたはこの一週間どこでなにをしてたんですか?」
「逃げていたんです。連続殺人犯から……」
深くかぶっていたキャップ、ファストファッションでそろえたシャツとジーンズ、そして、機能性重視のリュックという服装から、彼女が身を隠して過ごしていたことは想像がついた。
「警察に駆け込むこともせずに、ですか? 確かあなたのお父さんは警視庁の警備部長ですよね? はっきり言って、こんな二重人格の高校生を頼りにするなんて、おかしいですよ」
星良はぎゅっと唇を結んだ。彼女の目の中で、ぶるぶると瞳が震える。
「星良ちゃん……?」
「灰土さん……。信じちゃダメです。誰、も……」
突然、ソファの上で星良が崩れ落ちる。とっさに文乃が支えようとしたが間に合わず、彼女の体は床に転がった。
「星良ちゃん⁉」
文乃が体を揺らしても、星良は目をつむったままだった。
「なんだ……」
彼女に駆け寄ると同時に違和感を覚える。先ほど抱き着かれた時にしたシャンプーの香りとは別種の、鼻の奥を刺激するような臭いがした。
「まさか……」
脚から力が抜けて、膝をついてしまう。
「あれ。なんで……」
文乃も、頭を押さえながら、星良の隣に倒れこむ。
とっさに口と鼻をシャツの袖で覆うが手遅れだった。今度は全身から力が抜けて、僕自身も床に横たわる。
「く……そ……」
ゆらゆらと揺れる視界の中で、僕はローテーブルの下にアルミ缶サイズの鉄の筒が置かれているを見つける。その上部からは白いガスが噴き出していた。
「いつ、の間に……」
意識はどんどんと薄れていき、やがて僕は気を失った。
*
重い瞼を無理矢理押し上げる。最初に目に入ったのは、床に投げ出された自分の脚だった。僕は壁を背に、上半身だけを起こした状態で眠っていたらしい。
腕時計を確認すると、デジタルの文字盤には《19:25》と表示されていた。
「なにが……」
何度か瞬きを繰り返すことで、朦朧とする意識を取り戻す。
自分の前方に、赤い液体が飛び散っている。数秒の間、それを血だと認識できなかった。これほど大量の血液が散乱しているのを今まで見たことがなかったからだ。
百の血痕に、百の顔が反射している。
「なんだ、これ……」
血痕をたどって視線を教室の端へと動かしていく。窓の下。揺らめくカーテンの下に血を流している少女がいた。
高峰星良だ――。
微動だにしないその物体はまるでマネキンのようにも見えたが、腹の傷から流れ出ているのは紛れもなく人間の血だった。
重い体を無理矢理動かして立ち上がると、右手に不自然な重みを感じた。目をやると、僕の手には血の付いたナイフが握られていた。
「嘘だろ……」
アウトドア用のもので、折り畳み式ではないシースナイフだ。刃先から一滴が床に落ち、血痕がまた一つ増えた。
記憶はない。こんなナイフは見たことがない。握ったことも覚えてはいない。この手で少女を刺す瞬間など、想像すらできない。
遠くへ投げ捨てようとしたが震える腕が言うことを利かず、ナイフは足元に転がった。
「なにが、あったんだ……」
呼吸が荒くなり、鼓動が早まる。自分で自分を制御することができなかった。僕はポケットから立体パズルを取り出し、いつも通りの色合わせを始めようとする。
「青、赤、オレンジ、青……」
脳内で真っ白なマス目に色を割り当てようとするが、僕の手についていた血がキューブに移り、赤い手形ができてしまった。
両手で自分の頭を抱え込みたかった。しかし、僕はその動作を途中でやめる。
左腕の内側に文字を見つけたからだ。
《3ニンメ ガ 殺シタ》
返り血をインク代わりにしてその文字は書かれていた。その文字は幼く、まるで幽霊が書いたかのように線が揺れている。
三人目が殺した――。
「三人目……?」
僕が気を失っていたのはおそらく十五分から二十分程度だ。その間に、いったいなにがあったというのか。
窓の外からサイレンの音が聞こえてきた。別の場所へ向かうパトカーであってほしい、という僕の願望を無視して、サイレンは校庭で止まった。
左手の腕時計を確認する。付着していた血を拭うと、ウノの時間まであと一分を切っていることが分かった。
冷静になれ。やるべきことをやるんだ。
六年前、あの水族館で監禁されていた時と同じだ。僕がすべきことは観察し、分析し、指示をウノに託すこと。
星良の死体にばかり吸いつけられていた視線を無理矢理はがして、教室全体を観察する。
ソファとローテーブルの間には文乃が横たわっている。僕と星良は意識を失う前とは違う場所にいるが、文乃だけはあの時のままだ。
「文乃さん! 聞こえますか、文乃さん!」
「ん……」
すぐには目を覚まさなかったが、彼女の喉の奥から声が聞こえた。彼女は生きている。彼女には、ここへやってくる警察が、然るべき治療をしてくれるだろう。だが、僕に関してはそうはいかないはずだ。
「ここにいたらまずい……」
僕は教卓の上に置いていた自分の肩掛けバッグを背負う。そうしてからすぐに、隣のクマのぬいぐるみを手に取る。しかし、その途端、ぬいぐるみの後頭部からボロボロと小型カメラのパーツが零れ落ちた。
ぬいぐるみを裏返すと、クマの後頭部にはナイフで切り開かれたような穴が開いていた。
「そうくるか……」
足元に転がったカメラを手に取り調べるが、やはり録画映像が保存されているはずのメモリーカードは抜き取られていた。
校庭のほうから、数台の車が土の上で停車する音が聞こえた。
手首の腕時計が震える。交代十秒前の合図だ。
メガネをはずして、ジーンズのポケットへねじ込む。
僕は腕時計に向かって、一分後の自分に向けた言葉を叫ぶ。
「ウノ! とにかく、逃げろ――!」
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