□1-5

   [サノ2]


 瞼を開く。細部がぼやけていたが、向かい合って座っている相手が女性であることは、彼女の着ているセーラー服の輪郭から分かった。

 次に気が付いたのは、左手にあるマシュマロのような柔らかくて暖かい感触だ。

「うわぁ!」

 目の前の女性と握手をしていることに気付き、慌てて手を離す。ソファの背もたれに体を押しつけて彼女と距離をとった。

「す、すいません! 女性に気安く触れてしまって……」

 気持ちを落ち着かせるために目の前に置かれた紙コップを手に取る。二割ほど残っていた中身を飲み干した。

「あ、それ、私のコップなんです……」

「え! べべべ、別に関節キ、キッスをしようとしたわけではないんです! いや、紙コップの円周とあなたの唇の幅、そして、僕が今触れた面積を計算すれば、関節キッスになった確率はむしろ低いはずで……」

 ポケットからメガネを取り出し耳にかける。はっきりと視界に映ったのは、戸惑った表情をした同世代の女の子だった。

 その彼女の隣では、七守小茉莉がゲラゲラと豪快に笑っていた。

「文乃ちゃんかんにんなー、ウノはなれなれしいけど、サノは真逆でコミュ障やねん。女の子には特に」

「違う。僕はウノと違って、相手を不快にしない距離感をわきまえているだけだ」

 テーブルの上のティッシュ箱をまっすぐに直し、落ちたお茶の水滴をきれいに拭き取る。物の配置に調和を取り戻しながら、精神を落ち着かせる。

「本当に、人格が二つあるんですね……」

 小茉莉から文乃と呼ばれていた少女は、目を丸くしながら僕を見つめていた。

「あ、ごめんなさい、じろじろと。ただ、本当にあなたがあの灰土さんなんだって思うと、なんだか不思議で……」

 飾り気のない紺色のアメピンで作られた前髪の隙間から見える彼女の目を観察する。すると、頭に六年前の映像が浮かんできた。

 潰れた水族館の回りに集まった大量の緊急車両。パトカーのものとも救急車のものとも分からない真っ赤なサイレンが満ちる中で、僕は救急車の荷台の窓から、外を眺めている少女を見つけた。その少女も前髪が長く、自信のなさそうな垂れ気味の目をしていた。

「まさか、君も、あの水族館に……?」

 文乃はこくりと頷き、僕をまっすぐに見つめた。

「私もアクアリウムチルドレンです」

 旧友に会えたような喜びは一切感じなかった。それは文乃も同じようだっ。別にお互いに花が咲く思い出話があるわけではない。こうして会話をすることすら初めてなのだから。

「はい! ちょっと待ったー。小茉莉ちゃん只今、絶賛おいてけぼり中やねんけど」

 小茉莉が手を振りながら、僕と文乃の間で自分の存在をアピールした。

「小茉莉は、僕がアクチルだったこと知らなかったのか? てっきり、ウノが話してるもんだと……」

「アクアリウムチルドレンを、アクチルって略すことすら今知ったわ。うちと出会う前のことは、空気読んで聞かんようにしててんけど、別に秘密ちゃうかったんや」

 小茉莉は不服そうに眉をひそめる。マスクの下では口を尖らせているかもしれない。

「別に他人にべらべら話すものでもないんだが……」

 ちらりと、教室の隅に置かれた新聞に目をやる。数日前に雑紙代わりになればと地下鉄の網棚から持ってきたものだが、そこにはこの空野市でアクアリウムチルドレンの刺殺体が見つかったという記事が載っている。

「このタイミングだと話すべきことだな……」

「あ、でもなサノ。真面目な話、始める前に頭のそれ外したほうがええで」

 小茉莉に指摘されて頭に手をやると、アートバルーンで作られた幼稚園児が作ったドーナツのような輪っかがはめられていた。

「なんだこれは……」

「依頼人へのサービス品やねんて」

「誰が喜ぶんだこんなもの。というか、まさかあいつ、これつけて帰ってきたのか……」

 ねじって作られた楕円の大きさが不均等なところにウノの粗雑さを感じる。見ているだけでイライラした。

 僕は教卓からこちらを眺めているクマのぬいぐるみに風船の輪っかを乗せた。


   *


 真っ白い立体パズルを指ではじく。カシャカシャとしたリズミカルな音が教室の中に広がる。

「僕は水槽の天才児事件の被害者で、その時に人格が二つに分かれたんだ」

 小茉莉はしばらく続きを待ったあとで「え、終わり?」とソファからずり落ちた。

「要約すると本当にそれだけなんだ。誘拐される前、僕とウノが、灰土少年だった時の記憶はほとんどない」

 周りから聞いた話によると、オリンピックのメダルとノーベル賞を一緒にとるんじゃないか、なんて冗談半分で言われていたらしい。

「はっきりと残っているのは、誘拐されたあとの水槽の中で、必死に逃げ出すための方法を考えていた時の記憶だ」

 ――誰か助けて。

 ――ここから出なくちゃ。

 ――頭がおかしくなる。

 ――逃げなきゃ。

 ――一人じゃダメだ。足りない。

 ――作戦と実行力がどっちも必要だ。

 ――策を練るのには、疲労が邪魔だ。

 ――危険に飛び込むには、思考が邪魔だ。

 ――そうだ。じゃあ、二つに分ければいい。

 僕の説明を聞いていた小茉莉が、目を丸くする。

「それで、二つにわかれちゃうもんなん? 人格って」

「実際そうなってるんだから、そうなんだろう」

 いじっていた立体パズルの手を止めて、自分を指差してみせる。

「人間は理由があって自分の中に新しい人格を生み出すそうだ。親の虐待から身を守るため、トラウマを忘れるため、灰土少年にとってはそれが〝誘拐犯から逃げ出すため〟だったってだけだ」

 片方には運動神経を、もう片方には思考力を。片方には度胸を、もう片方には慎重さを。まるでゲームのキャラクターに役割に応じたスキルを割り振るように、僕とウノは生まれたのだ。 

「結果、脳筋バカと、屁理屈バカが見参したと……」

「こ、小茉莉さんそれは言い過ぎなんじゃ……」

 文乃が僕の表情をうかがいながらあたふたとする。人が怒ったり、不機嫌になったりするのを嫌う性格のようだ。

「実際にこいつといたら同意してくれると思うで。名前で分かるやろ? ウノは右脳先行でノリと勢いだけで生きとるし、サノは左脳先行で理屈ばっかり並べてるし」

 首を振って長い前髪を散らしながら、文乃が僕へと視線を戻す。

「もしかして、右脳のウノと左脳のサノで、ウノとサノ、なんですか?」

「違う。当時憧れてるボクサーと科学者がいたんだ。それぞれ宇野カズマ、と佐野学って名前だった。それぞれの人格が果たすべき目的に適してた人間をモデルにしたんだと思う」

 小茉莉が珍獣でも見つけたかのように僕を眺める。

「今さらやし、ついでに聞くけど、モデルがおるからって、それでなんで身体能力や視力まで変わるん?」

「え、そのメガネ、度が入っているんですか?」

 小茉莉は文乃に「ちなみに、うちな腕相撲でウノには負けるけど、サノには圧勝できんねん」と耳打ちする。

「多重人格者の肉体的なスペックが人格ごとに変化するのは珍しいことじゃない。実際に症例はいくつも報告されてるし、人間の体はその大部分を脳の働きに依存してるんだ。認知機能を向上させることで視力を回復させることができたり、火事場の馬鹿力は脳がリミッターを外すことで発揮される。という話は聞いたことあるだろ?」

「はー。ウノになったら筋肉がボーンって増えてるんかと思ったわ」

「もともとの機能の中で人格にとって必要のない部分をセーブしているんだと思う。三十分ごとに、次の時間でフルに力を発揮できるように機能を交代で休ませてるんだ」

 イルカが片目を交互に閉じながら脳を半分ずつ休ませる〝半球睡眠〟を行っていることを例にあげたが、文乃は三十分という時間に反応した。

「三十分ごとに人格が交代するんですか? それは、強制的に代わってしまうものなんですか?」

「そうだ。ゼロ分から三十分までは僕、三十分から次のゼロ分まではウノ。人格が表に出てくるこのルールも、脱出のために作られた。その理由には予想がつくだろ? 君なら」

「え、どういうことなん?」

 文乃は、自分の顔を覗き込んでくる小茉莉に説明を始めた。

「私たちが監禁されてる間、夜以外は三十分ごとにスケジュールが区切られていたんです。お祈りをさせられたり、大水槽で運動をさせられたり。その日によって少しずつ予定は変わりましたけど、必ず三十分ごとに区切られていました」

 文乃の口から語られた監禁中の様子は、僕が体験したものと同じだった。彼女が同じアクアリウムチルドレンであることを実感する。

「とにかく、そうして僕が作戦を立てて、ウノがそれを実行して、水族館から逃げ出したわけだ」

 丁寧な文乃のことだから、このタイミングで再度お礼を言われるかと思ったが、彼女はそうはしなかった。

「被害にあった子供同士は、警察のカウンセラーの指示でお互いに接触を持たないように強制されていたんです。でも、最初に逃げ出して警察を呼んでくれた子供がいるって話だけは漏れ聞いていました。その子が灰土という苗字であることと、事件を通して心を病んで、人格が別れてしまったことも……」

「病んだ、という表現は違う。これは、この体が選んだ変化だ。社会溶け込むために、自分の性格やあり方を必要に応じて捻じ曲げるのは、誰だってしてることだろ」

 文乃は「かもしれませんね」と力なく笑い、自分の言葉選びがうかつだったと謝った。

「でも、ほかのアクチルが僕とウノのことを知っているというのは初耳だったな。警察は事件解決を自分の手柄にするために、僕らの存在を伏せていたし」

「なにそれ! 警察ずるない?」

 小茉莉が当時の僕とサノ以上に腹を立てる。

「僕らの生活を守るため、っていう建前もあったがな。実際は別人格の二人になった僕とウノは親に不気味がられて家には戻れず、被害児童の援助を目的として作られたNPO法人を頼って、この空野市で生活を始めたわけだけど」

 手元で立体パズルが完成する。これで五度目だった。もちろん真っ白なので、完成したことは僕にしか分からない。

「最初は一時的な措置の予定で、いつかは親の元に、という前提だったんだが、そんな時に、アクチル被害者による通り魔事件が起きた」

 小茉莉が当時のニュース映像を思い出したのか顔をしかめる。

「あぁ、あれな……。クレー射撃の天才だった高校生が、街中で無差別に人を撃ったっていう……」

「私たちが解放された一年後に起きた事件ですね……」

 被害者から加害者になってしまったその少年は、誘拐事件を引き起こしたカルト教団の教えに洗脳されていたのだとニュースでは説明されていた。

 その事件以来、僕を含めたアクチルに向けられる目が変わった。

「犯罪に巻き込まれた悲劇の天才たちから、深いトラウマと実行力を兼ね備えた危ないやつら、になったわけだ」

「そんなんただの偏見やん!」

「自分に有益なものをもたらさない異質なものを警戒するのは、当然のことだ。別に僕らを気味悪がった両親にも、世の中にも、恨みはない」

 両親との生活の記憶が残っていれば、裏切られた、と怒ったり悲しんだりしたかもしれないが、そのための記憶すら僕らにはなかったのだ。

「家にも戻れず、通い始めた学校でも危ないやつ扱い。社会に適合できずに困ってる時に、小茉莉に会ったわけだ。そこからはお前も知っての通りだよ」

 小茉莉が「ようやくうちの登場か」と自慢げに鼻を鳴らす。

「こいつら、変人やけど能力だけはごついから、それを活かして小遣い稼ぎしよってうちが提案してん。そこで始めたのが、味方レンタル! ってわけ」

 小茉莉は黒板の〝味方レンタル〟の文字を指差す。

「大阪から家出してきていくあてのなかった小茉莉を、僕たちが助けたんじゃなかったか?」

「ちゃうわ! うちがビジネスパートナーとしてあんたらを助けてやったんやろが」

 彼女は、びしっとこちらに人差し指を向けて否定した。

「まぁ、結局来るんは警察や親に相談できないような依頼ばっかで、必然的に物騒なことばっかりやってんねんけど……」

 ヤクザから猫探しを頼まれたり、暴走族のリーダーに求婚されている女性をかくまったり、確かに物騒な依頼ばかりだった。

 僕はパズルをローテーブルにのせる。

「じゃあ、小茉莉への説明が終わったところで、今度は文乃さんの話を聞かせてもらえますか? あと、十五分くらいでまた、あいつに変わっちゃうので」

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