□1-1
□Ⅰ
[文乃1]
水槽を叩く。大きな水圧にも耐えられる分厚いガラスはびくともしない。照明のついていない向こう側には、ただただ闇が充満している。
《水槽を叩かないでください》
ガラスの横には魚を驚かせないためにそんな注意事項が明記されているのだろうが、今は関係ない。
水槽には魚どころか水すらなく――。
内側にいるのは自分なのだから――。
岩や珊瑚を模したオブジェも撤去されていて、水槽の中はなにもない。
体を斜めにすれば脚はギリギリ伸ばせるが、横になることは出来ない。立ち上がると頭が天井の網にぶつかる。
ここにいれられてから何日が経っただろう。もう夏休みは終わってしまっただろうか。
私をさらった大人たちは、なにを質問しても答えてくれなかった。淡々と食事を運び、トイレにつれていき、時折、意味のわからないお祈りを私に強制した。
「もう、いいや……」
一日に三十分だけ設けられる運動の時間には、私は大水槽へと連れ出された。使える道具はバスケットボール一つだけだ。
今日、私はそのバスケットボールをいれるためのネットをシャツの下に隠し、水槽へと持ち帰ってきた。
ナイロン製の糸で作られた白いネットは、まるで蜘蛛の巣のようだ。
国語の授業でやった『蜘蛛の糸』の話を思い出す。このボールネットもお釈迦様がくれた、地獄から私を救ってくれる糸なのかもしれない。
水槽の上部を覆う網にネットの端を固定してから、垂れ下がった輪っかに首を通す。
私がすべてを諦めたのは、監禁生活が辛いからではない。
むしろ、この生活をありがたくすら思っているからだ。ここへさらわれてくる前から、私の生活は地獄だった。
食事を三食与えられ、罵られることもなく、殴られることもない。
もしかしたら、自分の家よりも、この水槽のほうが快適なのかもしれない。
仮にここへ誰かが助けにきても、別に私には帰りたい場所などないのだ。
水槽の壁に預けていた体重を、だんだんとロープに託していく。膝を伸ばして、足の接地面を最小にしながらお尻を浮かす。
「あがっ……」
首が締め付けられ口から空気が漏れだした。
「ぐ、ぎゅ……!」
頭の血が体へ降りていかない。
体の血が頭に上っていかない。
顔が膨張していく感覚に襲われる。窒息する前に頭が破裂しそうだった。
「きっ……!」
自分のものとは思えない声が水槽の中に響く。
「聞こえる? 私の声!」
事実、それは自分のものではなかった。
突然の事態に、私は思わず壁へ手をついてしまう。首でせき止められていた血流がまた動き出し、ビリビリと視界の中に光の粒が走った。
「今、の……は……」
酸素不足が起こした幻聴かと思った。しかし、呼吸を整えてからもその声は確かに耳に届いた。
「聞こえてる、かな……? お願い、返事して!」
声の発信源は水槽の側面に生えているパイプからだった。パイプは先が下向きに九十度曲がっていて、向こう側は覗けない。
「誰か、いるの……?」
私の声はパイプの中へと吸い込まれていった。
「よかった! パイプ越しに、すごい声が聞こえたから心配で声をかけてみたの」
くぐもってはいたが、女の子の高い声だった。つまり誘拐した大人ではなく、私と同じ誘拐された側の子供なのだ。
「あなたも、さらわれたの……?」
彼女の声はついさっきまで死を選ぼうとしていた私とは真逆に落ち着いている。まるでたった今水槽にいれられたばかりのようだ。
「私、セラ。タカミネセラっていうの」
つい数秒前まですべてを諦めていたのに、私は条件反射で自己紹介を返してしまう。
「わ、私は、き、如月文乃(きさらぎふみの)……」
上半身を起こすと、頬に滴っていた汗がキーボードのスペースキーに落ちた。
六年前の夢なのに、やけに現実味があった。漫画喫茶のパーテーションで区切られたこの空間が、あの狭い水槽に似ていたからだろうか。
私はセーラー服の胸ポケットに固定していたアメピンで、視界を遮る前髪の一部を脇に寄せる。そうしてできた隙間から、起動したパソコンでネットニュースをチェックした。
《連続刺殺事件、いまだ進展なし。水槽の天才児を狙った犯行か》
水槽の天才児という文字列には〝アクアリウムチルドレン〟と読み仮名がふられている。
その言葉が生まれた事件を知らない世代に向けてか、忘れてしまった世代に向けてか、ニュース記事には簡単な説明が付け加えられていた。
《水槽の天才児事件:新興宗教団体によって、全国の児童二十四人が同時にさらわれた、戦後最大の誘拐事件。被害児童が全員、様々な才能や技術に長けていたこと、彼らが廃水族館に監禁されていたことなどから、彼らは水槽の天才児(アクアリウムチルドレン)と呼ばれた》
記事の横には、別の関連ニュースへのリンクが張り付けられている。
《行方不明の高峰星良(たかみねせら)さんまだ見つからず。連続殺害事件との関連は》
その記事を見て、安心と不安がごちゃ混ぜになった複雑な気持ちに支配される。彼女が見つかっていないことは残念だ。だが、遺体が見つかったと報道されるよりもずっとましだ。
記事の下部には、一般投稿者からのコメントがずらりと並んでいた。
《これ普通に考えて死んでるだろ》
《誘拐事件のことを忘れて平和に暮らしてた子供たちが怯えていると思うと、犯人が許せません!》
《この子お父さんが警察のお偉いさんってマジ?》
縦長に続く無責任な価値観の羅列。これが世界なのかと思うと吐き気がした。
「星良ちゃん……」
神を信じていた連中に誘拐された私は、神の存在なんて信じていない。だが、自然と両手の指を絡ませて、祈りの形を作ってしまう。
「どうか……」
視線を落としたことで、テーブルに置いてあった私のスマホが光っているのに気がついた。メールの着信を示す青色のライトだった。
両親から? いや、ありえない。私が数日姿を消したところで彼らは気にも留めないはずだ。
友人から? そんな存在は地元にはいない。唯一の親友は今、行方不明だ。
いたずらメールかなにかだと予想しメールを開くが、そこには私が、わらにもすがる思いで連絡した相手からの返信があった。
《どうも。
それは、ここ一週間に見た中で、唯一といってもいい朗報だった。
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