第29話 契約書
「僕は、墓参りをやめるつもりはないよ」
蛍は真摯に言った。
「もう忘れて楽になってほしいんです」
「僕はね、お母様に話しかけることで、救われているんだよ」
「意味がわかりません」
「良いんだ。那智って呼んでもいいかい?」
「はい」
「那智、お土産があるのでは?」
「ええ。アイスワインとメープルクッキーです」
「美味しそうだね。飲みながら一局打たないか?」
「はい」
那智は以前のように目一杯置き石してから打ち始めた。アイスワインは
「君は僕に会うと辛いかい?」
「いいえ。先生に会うと、胸がいっぱいになります。苦しまないでほしいと考えます」
那智は次の一手が分からなくて頭の中がもやもやした。長考してから右辺をカケツぐ。
「僕を救ってくれるのは、君しかいない。次の仕事が見つかるまで、君さえ良ければ、側にいてくれないかな?」
久しぶりの対局は一手一手が貴重で、随分と長くかかった。石を片付けると、那智はすぐさま言った。
「契約書を見せてもらえますか?」
「じゃあ……」
「はい。働かせてください」
蛍が提示した契約書の賃金は、以前の給料の八割程度であったが、彼女にとっては充分だった。
「先生、白詰草の花言葉を?」
ボールペンで契約書にすらすらと名前を書いていく。
「復讐かな? 戒めに引き出しに入れているよ」
「いいえ『幸福』です。もうこうして会えないと思ったから、先生が幸せになるように願掛けをしたの」
「じゃあ、村正は?」
「あれは単なる思いつきです。カッコいい泥棒で終わりたくて……記入出来ました」
蛍はふっと笑うと書類を確認する。
「僕は充分幸せだよ。君の仕事は基本的に17時までだ。ちなみに次の水曜の夜は空いているかい?」
「はい」
「僕の誕生日なんだ。もう一度『村正』に会わせてくれないか?」
「え?」
「君のレオタード姿に魅了されたんだ」
「その仕事は、契約書に含まれていなかったわ」
「恋人になってくれ。それならハラスメントに該当しない」
「でも、変態です」
「ははは。じゃあデッサンし合おう。それなら芸術だ」
「先生、絵の心得が?」
「もちろん。これでも画家の曾孫だからね。君も、画家の娘だ」
*
「それで那智は働くことに?」
滝はパチッと黒石を碁盤に置くと、にやにやしながら話した。
「ああ、一昨日から来てくれているよ」
「お前、あいつを手離す気はないだろう?」
「さあな。僕は合理主義なんだ。道理は通すけれど、先祖のせいで俺達が付き合えないのは馬鹿げているよ。俺は側にいて、ずっと償っていくさ」
滝は頷くと、鞄から包みを取り出した。
「ハッピーバースデー。明日は対局日だろ? 今後は那智に貰えよ」
それは駅前の菓子店のアーモンドチョコであった。
「メルシー」
蛍は早速一粒口に入れると、白石をつないだ。甘くて芳ばしい香りが口に広がる。
「あれ? また黒石に何か混ざっているぞ」
「え?」
「おいおい、またかよ。まどろっこしいな。もう隠すのは止めようぜ」
滝が黒石を掘り起こすと、金色の指輪が出てきた。
「何か掘ってあるぜ。何て読むんだ?」
蛍がのぞき込むと、確かに小さな刻印がある。
「フランス語だね。ジュ テーム」
滝は両手を上げた。
「理由は本人に聞いてみろよ。ご馳走さま」
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