第27話 バンフの町

 那智はカルガリ空港に降り立つと、バスターミナルを目指して歩き出した。

「紀伊さん」

 日本語で声を掛けられて振りむくと、金髪に妖艶な雰囲気の美女が微笑んでいる。

「坂口さん! どうしてここに?」

 那智は目を丸くして質問した。

「東雲から連絡がありましたのよ。バンフの街までご案内するようにって」

「バスに乗りますから大丈夫ですよ」

 送迎してもらえば、数時間を要するだろう。

「私、専業主婦になりましたのよ。暇を持て余していますの。ゆっくりお話がしたいわ」

 坂口は微笑んでウインクした。

「ご結婚されたんですね。おめでとうございます」

「ええ。彼はとっても良い人なんです。車を回してきますから、ここで待っていただけます?」

 坂口は胸の開いたブルーのサマーニットを格好よく着こなしている。髪が少し伸びて、後ろで束ねている。



 車はどんどんスピードをあげて、次々とバスや乗用車を追い越した。左ハンドル車の助手席に乗るのは少し違和感があったが、すぐに慣れた。

「こんなに飛ばして大丈夫なんですか?」

「ええ、この国では問題ないのよ。昼過ぎには着くと思うわ」

「すみません」

 正直バス酔いすることがあるので、助かった。

「今夜はバンフに泊まるんですって?」

「はい。実は仕事をクビになったんです。せっかくなので観光も兼ねて何日か滞在しようかと思っています」

「そう。国立公園ここは雄大な自然でしょう? 野生の動物達も面白いのよ」

「冬は寒いとか……」

 ガイドブックには氷点下になると書かれていた。

「ええ、しもやけが出来るわ。ところで、秘書の話を一旦断ったそうね」



「はい、ありがたいお話ですが……」

 彼女が辞めても尚、彼と連絡を取り合っている事が羨ましく思える。

「あなた達の間に何があったのかは知らないけれど、彼はもう秘書を採らないと思うわ」

「何故ですか?」

 雲が晴れてボンネットが眩く反射する。坂口はダッシュボードから水色のサングラス取り出す。

「彼はそもそも自分で管理したい人なの。私ね、頼み込んで、無理やり秘書にしてもらっていたのよ。彼と彼の碁が好きだったの」

「では、なぜ……」

「結婚したのかって? お見合いしたのよ。彼のことは諦めたの。最後に告白しようと思ったけれど、それも虚しくなってやめたわ」

 坂口はドリンクホルダーの炭酸水を飲むと、アクセルに力を込めた。

「……」

「つまり、彼が秘書にと考えているのはあなただけなの。彼のエゴだから、待たせたとしても気にしなくていいわ。だから、もう少しだけ検討してあげて」

 トンネルを出ると流れゆく景色の中に小さく、トナカイに似た動物が見えた。



 バンフの街はこじんまりしていたが、レストランやスーパーもあり、ほっとするような街並みで、滞在するには居心地が良かった。

 ミックに会えたのは三日目の昼だった。彼は白髪の老人で腰が少し曲がっていた。那智は母の死の一部始終を聞くと、静かに涙を流した。

「ずっとご家族に謝罪したいと思っていました。遥々来てくれて、どうもありがとう」

 ミックはズボンのポケットから金色に鈍く光る指輪を取り出した。

「あの日、これが裏口に落ちていました。お母様の物でしょう」

 手に取りるとリングの内側に、『Je t’aimeジュテーム』と文字が刻まれている。父からの婚約指輪なのだろうか。

「ずっと持っていてくれたのね? ありがとう」

 那智は涙を拭うと、自分の右手の薬指にそれを嵌めて微笑んだ。

「これを見る度後悔してきた。やっと、あの世へいけます」

 老人は項垂れて嗚咽を漏らした。那智は彼の皺の手に自分の手を重ね、もう一度「ありがとう」と伝えた。



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