第18話 東雲水面


 次の週末、滝は紀伊家の仏間に例の絵画を見に来た。

「お前、これを先生の手元に戻す気はあるのか?」

「まさか。これを遺贈したのは画家の意思。返したら母さんの死が無駄になる」

 権之助がかき氷を運んでくると、那智は滝に器を手渡した。

「まあ、そうだな。だがお前は盗人のままでいいのか?」

「先生にはもう会わない」

「彼は納得しないさ。ばあちゃんの霊に惑わされただけだと思ってるんだからな」

「何それ」

 那智は笑った。ある意味そうなのかもしれない。

「これ、美味だな」

 かき氷には黄色い蜜がかかっている。滝はそれをスプーンでほぐしてがつがつと口に運んだ。

「でしょ? バナナ味なの」

 那智は自分のかき氷の黄色い部分を掬って滝の器に足した。


 *


 同じ頃、蛍の自宅には彼の父親、東雲水面みなもが来日していた。

「父さん、崖から転落した女性の事を教えてください」

「お前がいの一番にそう言うだろうと思って、調べてやったよ」

 水面は懐から手帳を取り出すと、パラパラとめくった。

「女性の名前は、吉野理絵りえだ。もっとも、旧姓のようだがな。警察に聞けば、本名もわかるだろうさ」

「なぜ旧姓を?」

「家政婦との親子関係を示す為だろう」

「その人は、絵を盗みに来て、転落した」

「そう聞いている。盗みの件は彼女の名誉の為に警察には伏せたようだがね」

「本当に名誉の為? 他意はありませんでしたか?」

水面は少し考えて答えた。

「さあな。ただ、親父は何かに怯えていたよ。引きこもって碁ばかり打っていた。絵画の側を離れたくないようだった」

「何故ですか?」

「さあな。婆さんが心労で逝ってるせいか、あの絵に対する執着は異常だったよ。俺はバカンスでしか別荘を訪れなかったから、親父とお袋が亡くなった今、これ以上はわからない」


「確か、使用人がいましたよね?」

「調べたが、執事は他界していた。ただ、ガードマンだった男ならまだ生きている」

 水面は顎髭を撫でながら答えた。

「その人に会えますか?」

「ああ、彼は今カナダにいるよ。連絡先がこれだ」

 水面はポケットからメモを取り出した。

「ありがとうございます。感謝します」

「お前が電話してくるなんてよっぽどの事なんだろうと思ってな」

 水面はにやりと笑うと、立ち上がってリビングを見回した。

「……はい」

「だが、調子が戻ってきたようじゃないか。決勝リーグに上がれたようだな」

 蛍は父親が自分の戦績に関心がある事に驚いた。

「ええ。スランプは脱しました。もう僕は負けませんよ。タイトルを掴みに行きます」

 蛍は微笑んだ。眼鏡の奥には、以前のような鋭い眼光が戻ってきていた。










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