第11話 怪盗 那智
「怪盗、那智参上!」
鏡の前でポーズを決めてみるが、気分が上がらない。今夜決行するのだと思うと憂鬱になる。それは犯罪を犯すからでは、ない。
手帳を広げて彼のサインを見る。少し丸みを帯びた字体は、鋭く切り込む彼の碁には似合わないが、那智は彼がスポーツ眼鏡のクールな印象とは裏腹に、優しい人であることを知ってしまった。失敗すれば彼には二度と会えないだろう。こんな結末を迎えるなら、ファンのままでいたかった。
「弱気になっちゃダメだ」
頬を叩いて気合を入れる。でも、例え盗みに成功したとしても、しらを切り通せるだろうか? 彼が警察に届けたら? 否、それは不可能だ。彼を諦めなければならないだろう。
滝の車に乗り込む。
「おおっ。レオタードじゃん、かっこいいぞ」
「何言ってるの、あんたの嫁がよこしたんだよ」
確かに動きやすい。何も着ていないように体が軽い。
那智は昔、忍者になりたくて木や塀に上ったり、飛び降りたりと修行をした事がある。ある時スカートが枝にひっかかり、転倒して左手の小指を複雑骨折した。以来修行は禁止になったが、あの時このレオタードであれば、今頃くノ一になっていてかもしれない。
「どうやって忍びこむんだ?」
「正面からいく。これがあるから」
那智は胸元から鍵を取り出した。
「合鍵?」
「貧血を起こしたとき、彼のベッドの引き出しに見つけたの。それでスペアキーを作った」
ディンプルキーでは無かったので、複製に時間はかからなかった。
「じゃ、裏通りでまってるからな」
うなずいて、走り出す。時計の針は19時ジャストだ。
この時間彼は碁仲間の検討会に出席している。通りに人影はなく、今いる角度が防犯カメラの死角になる事も調査済みである。
那智は大胆にアール門柱の横の虎の彫刻像によじ登り、柵の向こうの小人達の待つ庭へ忍び込んだ。
裏口へ回り、スペアキーと暗証番号で侵入する。玄関は指紋認証であるが、ここからなら容易に侵入できる。
キッチンから、リビングに進む。ペンライトの明かりで絵画を探すと、慎重に絵画を外す。
額縁を三つ重ねて風呂敷に包み、活字の置き手紙をする。
「無事完了した。今からそっちに行くわ」
インカムに囁くと、滝の「了解」という声が聞こえる。
裏口から出て、小人の庭を戻る。花壇の忘れな草を踏まないように、慎重に進む。
高い柵を登り、白い虎の彫刻像を足場にして、飛び降りる。
その時、那智は彼と対峙した。
「待て!」
行く手を遮られ、月明かりに蛍の困惑した表情が露になる。
「これは祖母、留美子の絵なの」
那智は絵画の風呂敷包みをそっと胸に抱いた。
「駄目だ、返してくれ」
蛍は那智に近づく。彼女の手に触れようとする。
「さようなら、蛍先生」
彼女はひらりと彼をかわすと、ブロック塀に上り、その向こう側へ消えた。
「なぜ君なんだ……」
蛍はその場に膝をついた。月明かりに浮かび上がるシルエットは息をのむほどに美しかったが、その泥棒は、生まれて初めて愛しいと思った女性だった。
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