第10話 ユミたんの提案
「那智さんにこれをあげます」
那智は呼び出されて『苺茶屋』に来ている。丸眼鏡の彼女は滝 宗次郎の妻、ユミたんである。
「何?」
紙袋に入っている物を取り出してみると、それは伸縮性のある黒い布であった。
「じゃーん! レオタードです」
ユミは立ち上がってそれを自分の体に当てた。
「私はバレエもヨガもやらないよ?」
「何言ってるんですか、怪盗と言えばレオタードですよ!」
彼女は栗色の髪をお下げにしてリボンをつけている。ピンク色のワンピースは可憐で、那智はこんな色の服は着たことがない。
「怪盗?」
「宗ちゃんに聞きましたよ。絵を盗みに行くんでしょう?」
那智は苦笑する。まったくあの茶髪の癖毛男は。
「どちらかと言えばこそ泥かな。ユミちゃん黙っててね」
※
実は那智は東雲家で倒れた後、滝に会い事情を話していた。
「それで真実を打ち明けなかったのか? きっと先生は分かってくれるぜ」
「うん。でも……」
仮に祖母、留美子の主張が正しいとして、証拠は色褪せた日記しかない。だがそれを見せる事は、彼の家族の嘘の証明にもなってしまう。
母親の死に際を知るであろう蛍の祖父も、もう他界している。那智にはその件を蒸し返す勇気がなかった。
「それでやるってのか?」
滝の心配を他所に、那智は笑った。
「うん。決めた。要は絵があれば良いんだから……。今更事実を知っても誰も得しないわ」
※
ユミと別れ帰宅すると、自宅の表に父の姿があった。彼はちょうど乗用車のタイヤ交換をしている。那智は深呼吸して、声をかけた。
「ねぇ父さん、母さんも夢を見ていたの?」
父親がふり返る。今日は黄色の松毬柄の三角巾を巻いている。
「夢?」
「母さんもおばあちゃんの夢を見たから、絵を求めて海外に行ったの?」
那智の言葉に父は驚いて、軍手に持っていた袋ナットを落とした。ナットがころころと転がって車体の下に吸い込まれていく。
「まさか……お前も留美子の夢を!? あの人はまだ成仏していないのか」
「……うん」
那智は地面に這って、袋ナットに手を伸ばした。ぎりぎり、中指が金属を捉える。
「夢だけか? 起きている時は平気なのか?」
父は袋ナットを那智から受け取ると、手で締め始めた。
「一度だけ意識が朦朧として、勝手に涙が出たよ。ねえ……母さんの事を教えてくれる?」
父はトルクレンチに片足をのせてナットを締め付けると、ゆっくりと語り始めた。
「留美子の葬儀の後、母さんは急に夢にうなされ始めた。そのうち起きている時にも、急に泣いたりフランス語を口走ったりし出した。精神安定剤を服用しても改善されず、僕らは霊媒師のもとを訪ねたんだ」
知らなかった。二人の兄弟にはいつもの明るい母さんだった。
「霊媒師曰く、絵画を仏前に供えることが唯一の道だった。僕らは絵を探して三年後、ついにその絵が東雲という人の別荘にあることを突き止めた。日本人なら言葉が通じるからと、母さんは一人で渡仏した」
「どうして一人で行かせたの?!」
「僕は仕事を休めなかったし、君らは学校があったしね。母さんは施設から救いだしてくれた留美子に、親子以上の恩を感じていたから、彼女の魂を救ってやりたい気持ちも強かった」
「……施設?」
「ああ、母さんは孤児だったんだ。留美子は母さんを引き取って女手一つで育てた」
「おばあちゃんは、ずっと独身だったの?」
「ああ。彼女は留学した時、師匠に一途な恋をした。帰国してもずっと彼の事が好きだったから、結婚しなかったんだ。けれども子供が欲しかった」
「本当に母さんは事故死なの?」
那智の言葉に父はうなずいた。
「警察に聞いた話では、落ちる所を目撃した人がいたんだ」
「東雲さんね? 母さんは絵を盗もうとしたのね?」
「盗む? 彼女は交渉しに行っただけだよ。崖で足を滑らせたんだそうだ」
父は油圧式ジャッキを下げると、軍手を外した。
「そう……」
「とにかくもう一度良い霊媒師を捜してみるよ。お前は変な気を起こすんじゃないよ」
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