第5話 留美子の涙

「これは『左右同形中央に手あり』だよ。真ん中が正解だ」

 蛍は白の陣地の中央に黒石を置いた。あれから那智は水曜毎に東雲家を訪れている。

 彼女は手解きを受ける度もっと彼に惹かれたが、同時に己の無力さを感じて、自分は彼とは釣り合わないのではないかと思えていた。


 盤上をぼんやりと見つめると、段々と視界が薄れて行く……。


「……智さん、那智さん」

 何処か遠くから、自分を呼ぶ声がしている。

「……智さん、大丈夫か?」

 ああ、何だか悲しい。また祖母が泣いている。いつもそうだ。祖母の気持ちが勝手に自分の中に入ってきて、涙が流れる。見たくないのに、祖母の見てきた景色が見える。

 あれは誰……? 緑のベレー帽をかぶった、口髭の男性が見える。彼は白いキャンバスの前で、パイプをふかしている。



「僕を見るんだ。那智さん!」

「……先生」

 急に視界がクリアになって銀縁のスポーツ眼鏡が見えた。彼は心配そうな表情で、自分の手を握りしめている。ぽたぽたと、二人の手に滴が落ちている。

「一体どうした?」

 彼が心配そうに尋ねる。

「ごめんなさい、祖母の夢を見ていました」

 言いながら、自分の頬の涙に気づく。

「君は虚ろな瞳のまま、泣いていたよ。こんなことはよくあるのかい?」

 蛍の差し出した上質な手触りのハンカチで、涙と鼻水を拭う。

「いつもは睡眠中に祖母の夢を見るんです。今夜は何故かしら?」

 高級な碁盤が濡れてしまっている。慌ててハンカチで拭き取るが、また涙がこぼれる。

「ご、ごめんなさ……」

「落ち着いて。大丈夫だ」

 蛍は那智を抱き締めようとたが躊躇して、彼女の髪を撫でた。彼女が泣き止むまでずっとそうしていた。



 その日、那智は自宅に帰らなかった。蛍は夜食にアップルパイを焼いてくれた。IHグリルから甘い香りがする。

 彼はリビングのテーブルの下から折り畳み式の木製の碁盤を出して、二人はシャンパンを飲みながら遅くまで打ち合った。

「うちの碁盤もこんな折り畳み式なんですけど、小さい頃、この蝶つがいの動きが不思議で面白くて」

 那智は懐かしむように碁盤の裏側を見た。真鍮のつがいは子供の目には特別な物に見えた。

「僕はね、碁笥ごけの中に好きな子に貰ったくるみボタンを隠していたんだ」

「くるみボタン?」

「そう。その子のイニシャルの描かれたボタンだった。その辺にしまうと親にバレるけど、碁石の中なら気づかれない」


「でも、打つときに見つかるわ」

「そう。だから、絶対に白石は譲らなかった。常に誰よりも強くある必要があったんだ」

「それでプロに?」

「だったらその子に感謝しなくちゃなぁ。それに祖父から、碁笥には神様がいると聞かされていたから、神様がボタンを守ってくれると考えた」

 そう言って彼は笑った。その瞳が、とても優しくて、那智はついうっかり、不安を口にしてしまった。

「先生、ドライフラワーはどなたから?」

「あれは、秘書の坂口さんだよ」

「秘書?」

「マネージメントをしてくれる人だ。実は彼女をここへ呼んであるよ」





























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