第1話 理想の男

 那智なちは小学生の時、碁会所に通っていた。 近所にプロ五段の棋士が経営する『囲碁センター』があったのだ。

 始め、父親の薦めで一つ年下の弟が通っていたのだが、何だか楽しそうだったので自分も通いたいと言った。



 自宅には折り畳み式の木製の碁盤があって、兄弟は赤ん坊の頃から、碁石をひっくり返して並べて遊んだ。石は白黒入り交じってしまい母親はため息をついたが、碁石を触ってはいけないとは決して言わなかった。

「碁石の白は昼、黒は夜を表すのよ」

「あらわす?」

「そうよ。碁盤は時の移ろいを、碁石は天空を表しているの」

「てんく……」

 母親が時々する話は難しかったが、子供達はワクワクした。黒石のひんやりとした手触り、白石の縞模様と欠けてしまいそうな繊細さは那智を虜にし、飽きることはなかった。



 碁会所に通う小学生は、自分達と一つ年上の滝くんの三人だけだった。滝くんは茶色い癖毛の少年で、人形のように可愛らしかった。子供達は大人に交じって端の席で順番に打った。

「嬢ちゃん、次はおじさんとやろう」

 煙草のけむりは目にしみたが、パチリと石を打つ快感はなかなかのもので、少しだけ大人になった気がした。

 那智は勘が良く、習い始めて一年で地域の子供囲碁大会で入賞出来るまでになった。だが温和な性格のせいか、相手の陣地に切り込むことが苦手で伸び悩み、中学生になると碁会所をやめてしまった。



 そのせいか大人になっても、目算が得意で相手の陣地に大胆に切り込むような、理系の男性に憧れを抱いた。

 テレビでその人の棋譜を見たとき、理想の男だと思った。

 彼はプロ棋士で、名を東雲しののめ ほたると言った。那智は時折彼の出待ちをしては、ネットに好物だと記載のあったアーモンドチョコを差し入れた。手紙は添えず、ただ菓子箱を渡してすぐに去った。



 東雲蛍には対局後に寄る行きつけの珈琲館があった。カウンターの一番奥が指定席で、彼はいつも文庫本を手にしていた。背広姿でひょろりと座高が高く、銀縁のスポーツ眼鏡のが印象的だった。

 那智は自分も文庫本を持参して、一番離れた対面の角のテーブルにそっと座った。彼と同じ空間を共有していることが、至福の時だった。彼は小一時間読書してから帰宅するのが決まりだった。



 ある日、いつもより早めに立ち上がった彼は、那智のテーブルにやって来た。

「こんにちは。いつもチョコレートをありがとう」

「いぇっ。あの、サインしていただけますか?」

 那智は慌てて鞄から手帳とペンを取り出した。手帳を広げ両手で差し出し、賞状授与式のように深々と頭を下げる。

「ええと、お名前は」

 彼はすらすらと手帳にペンを走らせる。

「那智黒の、那智です」

 彼女の名前は、父親の碁好きが高じて、黒石の原料となる那智黒に由来していた。

「素敵な名前ですね」

 蛍は手帳に『那智さんへ』と漢字で付け加えた。名前の事で父親に感謝したのは初めてだった。彼はサインし終えると、握手を求めてきた。

「もう一杯飲みたくなりました。ご一緒しても?」




 





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