第2話 お友達から
「は、はい」
東雲蛍の手は温かく、意外にもゴツゴツとしていた。彼は那智の向かい側に座った。店員を呼ぶとチケットを取り出して、二人分のオリジナルブレンド追加する。
上目遣いに彼を見る。ネクタイを緩め、いつもは七三分けにセットされている髪が僅かに崩れてきている。
「那智さんも碁を?」
「嗜む程度です。定石もあまり知らなくて」
微笑み返したが、うまく笑えたか分からない。彼はカップに口をつけると、ほぅと息を漏らす。
「ここのブレンドは香りが良いですね」
そっと口縁の温度を確かめてから、一口飲んでみる。確かに深煎りで少し酸味があって香ばしく、強張った体がほぐされていくようだ。
彼はゆっくり、淡々と話したので、那智は徐々に落ち着いてきた。
「先生は、いつも読書されていますね」
「ええ、勝敗を持ち帰りたくないので、ここでリセットする為です。特に負けた日はね」
そう言うと彼はウィンクした。スポーツ眼鏡が端整な顔立ちによく似合っている。
「いつもどんな本をお読みになるのですか?」
「推理ものが多いですね」
彼は鞄に入っている分厚めの文庫本を見せた。
「うわぁ、難しい本ですね」
那智は読書家な方ではないが、その作家のシリーズは読んだことがあった。難しい言葉の羅列で、疲れている時に読みたいとは到底思わない。
「失礼ですが、那智さんは恋人はいらっしゃいますか?」
彼は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。レンズの奥の瞳が、対局前の鋭い眼光のようで、ぞくりとする。
「え……」
「実は素敵な方だと思って、声をかけてみたいと考えていました」
何を聞いたのかよく分からない。体がふわふわして、頭の中でリンゴーンと洋鐘が鳴っている。
「彼氏、は……いません」
やっとのことで声を絞り出すと、彼は目を細めて微笑む。
「それは良かった。差し支えなければ、お友達からお付き合いしていただけませんか?」
「……はぃ」
自分の頬をつねってみる。エイプリルフールにはまだ半月ある。
「では、これを。いつでも遊びに来てください、是非一局打ちましょう」
彼はふっと笑い、名刺を差し出した。記載の住所は隣町で、バスに乗ればそれほどはかからない。
「いえっ。先生の碁盤でご指南いただくなんて申し訳ないです」
烏滸がましくて遠慮する。きっと鹿威しのある庭なんか眺めながら、高級な碁盤で打つに違いない。
「蛍と呼んでください。そうですね、棋士の先生がいらっしゃる事もあるので、古い碁盤も持ち合わせていますが、リビングに晩酌用の物もあるので、固くならなくて大丈夫ですよ」
彼は名刺に『地蔵前下車』とバス停の名前を書き足す。
「私のような素人が、良いのですか?」
「もちろん。下心がありますから」
彼は飄々と笑った。
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