1-3 常識はずれの世界

     ◆


 わわっと思わず声が漏れた。

 窓枠を蹴りつけたからだが、何メートルも飛び上がる。細い道の空中を横切り、反対側の家の屋根にしゃがみ込むようにして着地していた。

 日常で見ることのない視点で周囲を見回す。

 ピースはどこだ?

 夜の闇を街灯など人工の明かりが部分的に押し返しているが、時間帯からか、それほど強くはない。

 光の点がチラッと見えた。あれか。

 建物の屋根を思い切り走り出し、慌てて止まった。

 自分で走っているのに、速すぎる!

 加減しつつ、屋根を走って、跳ぶ。屋根から屋根へ渡っていく。大きな通りが前方にあり、その空白はかなり幅がある。

 もうどうとでもなれ、と加速する。

 屋根を強く蹴り、通りを飛び渡る。

 空中にいる間、どっと不安が押し寄せてくる。

 しかしもう、どうしようもない。

 届くか? と、届……く!

 足から通りの反対側の建物の屋根に着地し、勢いに堪えきれず、転がり、ばったりと倒れ込む。

 今になって冷や汗が滲んできた。

 すごい。大通りの幅は三十メートルはあった。オリンピックの走り幅跳びなんて目じゃない距離を、あっさりと跳んでいる。いやいや、オリンピックどころか、全生物を対象にしても、ほとんど不可能だ。

 なんでもないはずの俺が、今、ここでは、常識はずれの、超人的な運動能力を持っているなんて!

 起き上がり、光の点を探すが、見えない。

「あんた」

 唐突に声をかけられ、びっくりした。

 横を向くと、少女が立っている。俺と同じくらいの年齢に見える。服装はあまり飾り気もなく、シンプルだ。長い髪の毛をひとつに結んでいる。

 彼女の頭に耳があり、尻尾もある。シーカーだ、と分かった。

「新入り? あんな大ジャンプして楽しい?」

 み、見られていたのか。

 どう答えるか迷っていると少女はブツブツと呟く。

「ウサギの本能かしらねぇ。それとも新入り独特の、度胸試しとか。馬鹿らしい」

 馬鹿らしいらしい……。

「えっと、俺は、都成勝利。君は?」

「この場所で本名を名乗る奴はあまりいないよ、それも覚えておきなさい」

 ……新入りで、何も知らないんだよ。

「あんた、何しにこのビッグゲームに参加しているわけ? あんたにも願望があるってこと?」

「願望?」

「それも知らないの? ピースよ、ピース」

「あ、ああ、それね。あまり考えていない」

 ぽかんとした顔の後、少女は一転して苦り切った顔になる。

「考えなしに、この遊びに加わって勝てるつもり?」

「勝てる?」

 このバカ! とそっぽを向いてから、彼女はぐっと膝をたわめると、跳ねるように飛び上がって、離れていってしまう。

 反射的に追いかけていた。

 しかし彼女の身体能力は俺より段違いに高いと分かった。

 同じウサギのはずなのに、力強いし、機敏だ。

 彼女が向かう先に白い光の玉が見えた。

 あれがピースかぁ。

 そのピースを奪い合っている人間も見えてきた。全部で五人ほどか。

 通りに沿った建物の屋根で急停止して、まさに争奪戦の最中の通りを見下ろす。

 全部で確かに五人。どうやら三人対二人でピースを奪い合っている。そこに例のウサギのシーカーが乱入していく。

 彼ら六人の動きが早すぎるのは、地面を、そして建物の壁を蹴りつけ、縦横無尽に宙を横切っているからだ。

 ピースを掴んでいるシーカーは、ウサギではなく犬のような耳が頭にある。尻尾も見えた。

 その犬のシーカーの手元から、こちらは猫の耳と尻尾のシーカーが、ピースを掠め取る。

 だが、それをウサギのシーカーがさらに奪い、今度はウサギがもう一人の犬のシーカーに体当たりされ、建物の壁に叩きつけられている。

 痛そう……。

 俺は、反射的に地上へ飛び降りていた。高さは十メートル以上、普通なら自殺行為だが、そもそも自殺行為と思うこともなく、自然と地面に着地し、俺はうずくまっているウサギのシーカーに駆け寄った。

 その時にはピースを奪い合う、猫と犬のシーカーたちは取ったり取られたりを繰り返しながら離れていく。

「大丈夫か?」

 頭を振りながら、ハウンドどもは加減を知らないな、とつぶやくウサギは、特に怪我も負っていないようだ。立ち上がり、まだ頭を振っている。

「これがビッグゲームだよ、新入り君。どつき合いの、奪い合い」

「女の子に乱暴してまで、ピースを奪うわけだ」

 思わず冗談半分に言うと、まさしく、と強気な笑みが返ってきた。

「私はこれでも、勇敢なウサギ、と呼ばれているけどね」

「勇敢な? どういう意味?」

「ウサギのシーカーはあまり攻撃的じゃないのに、私は他の連中に挑むのをやめないからね」

 どう答えることもできず、やっと意識がはっきりしたらしい彼女が、体のそこここを伸ばすようにストレッチをして、「じゃあね」と言葉を残して跳び上がった。

 追いかける余地もなく、彼女が一人でピースを奪い合うシーカーたちへ向かっていくのを、見送るしかない。

 観戦するしかないな、と気持ちを改めて、俺も渾身の力で建物の屋根に跳び上がり、ピースを離れて追いかけていく。

 その日のピースは、黒い犬のシーカー三人組が巧みな連携で、ピースを奪取し、逃げを打ち、誰も追いつけないままにケージに入ったようだった。

 ケージというのも、不思議なもので、道路の真ん中に光の格子の円柱があり、それがケージらしい。

 ケージに黒い犬が飛び込んだ時、追いかけていたシーカーたちは動きを止め、誰ともなく、嘆息が漏れていた。

 どこかで鐘が鳴り出し、それを合図にシーカーたちが散り始める。

 直感的に、野性解放時間が終わるんだな、と気づいた。建物の屋根にい続けたら、降りれなくなる。

 俺は家まで戻り、窓を開けっ放しの部屋に、跳躍して飛び込んだ。

 ひときわ強く鐘が鳴り、体から何かが抜け出すのに気づいた時には、耳も尻尾も消えていた。

 なんとなく試す気にあり、部屋の中で軽くジャンプしてみる。

 普通に十センチくらい、体が宙に上がるだけで、何メートル、十何メートルも飛べる感じではない。

 どうやら通常に戻ったようだ。

 部屋の時計を見ると、二十五時だ。

 不意に眠くなり、シャワーでも浴びるか、という気になった。

 自分が変な世界に紛れ込んでしまったことを、今更、頭の中で検証する気になった。

 シャワーを浴びれば、夢か現実か、少しははっきりするかな?


(続く)

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