1-2 新しいことに尻込みしない季節
◆
俺が神代市へやってきて、ほとんど一人暮らしになったのは、様々な事情が複雑に絡み合ったからでもある。
まず第一に、三つ年の離れた妹が小学校を卒業すると同時に、アメリカに留学することになった。俺はあまり関わらなかったけど、それだけの才能だか、資質だかがあったんだろう。
十三歳でいきなり異国に放り込むのに気後れした両親は、自分たちも仕事を辞めて、アメリカに移住すると言い出したのだが、これにはさすがに俺も困惑した。
時期的には公立高校の入学試験の願書を提出する前だったので、何度かの家族会議を経て、俺は日本に残ることになった。
それで親戚のほぼ全てを対象に、俺を預ける先が吟味された。
結果、神代市にいる祖母のところへ預ける、となった。
祖母は七十代で、まだ矍鑠としてた。
高校も神代市の春夏高校を選び、これには無事に合格した。両親と妹もアメリカに繰り返し足を運んでいて、状況はすでに走り出していたから、後へは引けない。
中学校の卒業式が終わり、俺は一人で神代市の祖母の家へ引っ越した。
元は父親が使っていたという部屋があって、すでに大量の荷物が放り込まれ、物置同然で、俺はそれを五日ほどかけて、普通に住める空間にした。古いが意外に使い勝手のいい勉強机と、高級そうな椅子が出てきたのには驚いた。
父が残していった二十年は型遅れのジャケットやら何やらが入った箪笥も宝の山だ。
片付けが終わったその日、祖母が部屋の様子を見に来た。
よく片付いたねぇ、などと言っていたが、実際には隣の部屋に荷物をまとめたようなものだ。その部屋は完全に荷物に埋め尽くされているけど、見せないほうがいいだろう、と判断した。
夕飯にする、と言って祖母が階段を戻ろうとした時、ちょっとした事件が発生した。
足を滑らせ、祖母が転落したのだ。
ものすごい音と悲鳴。
自分でも不自然なほど冷静に、俺は祖母をタクシーに乗せ、病院に連れて行った。
診察の結果、右足と腰を骨折しているとわかった。大怪我である。
両親に連絡を取り、電話に出た母親は混乱したようだったが、祖母は入院するしかないし、それは今さら、どうしようもない。
そういえば、と母が言ったのは、俺のいとこの名前だった。
俺より七つ年上で数年前に看護学校を卒業して看護師をしているというのだ。
しかも祖母が担ぎ込まれた病院で働いている。
任せちゃいましょうか、と母があっさりと決断した。
それでも両親は一度、神代市へやってきて、いとこも含めて話し合いの場が持たれ、俺は祖母の家で一人で生活し、いとこが可能な限り、様子を見にくる、となった。祖母の面倒もいとこは見てくれるようだ。
「まぁ、私も一人ですし、余裕です」
いとこは実にさっくりと答えたものだ。この時から、俺は彼女を密かに、姉御、と呼び始めたわけだけど。
両親はとんぼ返りで帰って行き、三月中旬に妹とともに渡米した。
俺も空港まで見送りに行ったけど、両親は涙を見せるでもなく、むしろどこか嬉しそうな顔をしてて、俺としては不服だったが、まぁ、それほど気にすることでもないな、と気を取り直した。
一人で神代市へ帰ると、家では姉御が晩酌の最中だった。時間は二十二時を回っている。
「三人は無事に旅立ったわけ?」
「飛行機が落ちなければ」
「そういうニュースはないわね。夕飯は、食べてきた?」
いいえ、と答えると、冷蔵庫にあるからね、と言って、彼女は非常にワイルドに、スルメイカをかじっている。
かなり美人でスタイルもいいのだが、実に野性味あふれる性格であらせられる。
冷蔵庫からサラダと唐揚げを取り出し、唐揚げは電子レンジに入れて、適当に温めた。ちなみにどちらも出来合いではなく、姉御の手作りだ。ガスコンロに鍋があり、覗いてみると味噌汁が入っている。火をつけて温める。
電子レンジが音をあげる。熱い皿をお盆に移し、サラダと一緒にリビングへ運ぶ。
一度、台所へ戻って茶碗に白飯を盛り、味噌汁もお椀に入れて、リビングへ。
食事をしながら、姉御と今後の生活について、ちょっとだけ意見交換した。主に料理の分担と掃除の分担だ。姉御には仕事があるし、時間の自由は俺の方が大きいので、自然、多くを引き受けることになった。
食事が終わって、風呂に入って出てくると、姉御が「じゃ、帰るわ」とひらひらと手を振って去っていった。飲酒をしていたということは、徒歩で来たんだろう。彼女は一人暮らしで、ワンルームで生活していると聞いている。
こうしていきなり祖母との生活は、俺だけの一人暮しになった。
それでも初めての一人暮らしは、すべてが面白い。料理するのも、洗濯をするのも、掃除をするのも、買い出しも、全部が初めてで、新鮮なのだ。
そんな具合で気分良く日を重ね、三月下旬に高校のガイダンスがあった。初めての制服に、どこか浮き足立つ自分がいた。教室には見知らぬ顔しかないし、いきなり仲良くなる相手もいなかったけど、焦る必要もないだろう。
四月上旬の入学式までやることもないし、神代市街を探検したりして、気持ちがなかなか落ち着かない。
そしてその日、三月三十日の深夜、いきなり俺はシーカーになっていた。
もし、あのブリーダーが俺の前に現れる時期が今じゃなければ、決断はまた違ったかもしれない。
でも、今なんだ。
今の俺はすべてが新しく見えて、新しいことばかりで、尻込みするところがなかった。
もっと新しいことをやりたい、新しい世界を知りたい。
そんな思いが、俺を後押ししたんだと思う。
何かを始めるのに、格好の季節。臆病を感じない季節。
こうして家の二階から、俺は外に向かって飛び出していた。
(続く)
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