彼岸頃。荒びた魂まで優しく撫でてくれる、そんな甲斐性をもった快い風に吹かれ、私は空を見上げて彼女を待つ。どこからか黒くすばしっこい雲が続々と流れてきて、鉛色の巨大な雲を形成しようとしていた。今朝見たニュースによれば大型の台風が近づいてきているとのことだ。

 あの彼岸花も散ってしまうのだろうか。そんなことをふと考える。すると、ドアが甲高く鳴いた。耳障りなそれすら懐かしい。

「......美咲」

 光すら呑み込む闇を腰まで伸ばす、彼女の変わらない美しさ。だが、もう彼女は頬を微かに赤らめるような事はしなかった。

「......あの日以来、半年ぶりかしら」

 あの日。それは、二人で海を見に行こうとした、今の自分が浄化されてしまいそうな程輝かしい青春の記憶。それも今は点滅を繰り返す壊れた記憶でしかなかった。

 私と彼女の間を隔てるかのように、生暖かい風が吹いた。風は彼女の前髪をそよがせる。黒光りすら許さないその髪はやはり、呑み込まれてしまいそうな魔術的なものがあった。

「......うん、久しぶり」

 彼女は一瞬何か言おうとしたが、それを苦汁を飲むように内に押し込み、無難な返答をした。

「......そう言えば、丁度一年前か。私達が初めて話した日。覚えてる?」

 彼女は瞼をゆっくり閉じて、頷く。

「あの日はお互いに自己紹介するだけだったわね。他の楽しい記憶と比べれば影が薄い記憶だけど、それでも私は鮮明にあの日の事を覚えているわ」

 その日の記憶はまだ壊れていなかった。

 彼女は同じように頷く。

「特に、あの彼岸花。あれは凄く綺麗だったわ。その先には青くて静かな湖があってね......」

 あの色彩も今となっては私の脳にこびりついた地獄の色だ。

 彼女は頷く。

 「ねぇ」

 「......?」

 「あの場所に行こう」

 私は紅音の手を取る。彼女の決して暖かくはないその手は、やはり私の心に温もりをくれる。だが、もう私はその温もりを甘んじて受け入れようとはしなかった。

 私は彼女の手を引き、校舎を走った。先程はこの場所に歩いて来るだけで肩で息をしたというのに、彼女の手を握っていると風を切るように走ることができた。肉体が限界を越えていき、燃えていくかのような錯覚に笑みがこぼれる。

 『人はいつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない』

 脳の片隅に埋もれていた誰かの言葉が色彩を帯びる。

 命を振り絞り、死というゴールにひた走る様は実に人間らしく生きているのではないだろうか。この問いに満足な答えを開示してくれる人は、私の死へと突き進む心臓が間もなく迎える終焉までに現れるのだろうか。いや、それは無いと心は笑った。


 空は鉛色の雲が重く垂れ込んでいた。故に湖も不穏な暗さを湛えて、そんな中変わらぬ姿で燃える彼岸花はどこか不気味で、それでもやはり美しかった。

 私は彼岸花の咲き乱れる中に立ち入る。足に絡まる感覚は、まるで亡者達の赤い腕に誘われているようだった。いよいよ地獄じみてきた。そして、あと一歩で湖へ落ちるという所まで足を進めて、紅音のほうへ振り返る。彼女は彼岸花の境界線の向こう側で立ち尽くしていた。

「こっちに来なよ」

 私の声に、彼女は操られたように境界線を踏み越え、彼岸花の園に立ち入った。今だけ私は彼女を糸で操っていた。彼岸花が無惨に倒れてできた道を彼女は歩いたが、やはりそれでも足にまとわりついてくるかのような感覚に戸惑っているようだった。それでも彼女は甲斐ない努力で私の前までやってきた。称賛するように風が唸った。

 瞳と瞳が重なり合い、私達はとうとう憂いを帯びる。突風が吹き、深緑の木々が地獄の鬼達の呻きを奏で、彼岸花の細い花弁が空へ吸い込まれていくように舞い上がったこの描写の中、私は重苦しい口を持ち上げた。

「......ねぇ、紅音。あなたに、私の話を聞いてほしいの」


 

 

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