蝶 四

土曜日。空は青く冷淡だった。

 待ち合わせの中央駅は隣町にあり、その名の通り私達の県の鉄道の中心で、大きく発展した駅であった。そして、そこに向かうためには、町を走る見馴れた市営バスに乗らなければいけなかった。私は最寄りのバス停に向かった。

 吐息が白く可視化して、それが宙に上り消えていく様を観察していると、数分早くにバスは到着した。

 呼気を吐くような音を立てながらドアが開く。

 食われるかのように乗り込んで、私は後ろから三列目の座席に落ち着いた。

孤独な人なら誰もが窓から外の景色を眺めるのだろう。私もそうした。だが、バスの窓からは荒びた住宅街や、街路樹、ゴミの袋が積まれたゴミステーション、自転車を漕ぐ老人しか見えず、五分で飽きてしまった。窓にぼんやりとうつる自分は退屈そうに頬杖をついていた。それでも、バスは忙しなくバス停を転々とする。そして、景色に同じようなビルが並びだしたころ、バス停に停車する度々に乗客が減ったり増えたりして、バスが熱気に包まれ出した。それをじっと見て、思う。やはり人々は世界の糸に動かされている、と。毛忙しく動き、噛み合い、そして世界を回していた。その機構に乗り込む私も今は劇の登場人物なのかしら。そんな事を考えていたら、「終点」と続ける機械じみた女のアナウンスがバス内の熱気に掻き消されそうになりながらも流れた。間もなくバスは停車すると、ぞろぞろと乗客等が、同じ間隔、同じ足並みで、まるでベルトコンベアに運ばれていくかのようにバスから吐き出されていった。それを見送ってからやっと、私も共にバスから降りようと席を立った。料金を支払う時、運転手の学の無さそうな茶色い肌の男から舌打ちされた。こんなところでもやはり、マジョリティに従わぬあぶれ者は人の醜悪な本性を刺激するようだ。


 私は中央駅の切符売り場を目指した。そこで紅音と落ち合うことになっていた。

 大通りには多くの人々が行き交う。老若男女数あれど、全て同じ顔に見えた。

 ――雑踏。この言葉を生み出した人間は天才だと思った。そして、学校とは比べ物にならない喧騒に、私の心は不穏にざわめき立った。まるで、私が一匹の蟻で、周りを数千数万の蜂に囲まれたように思えた。そして、その数千数万の羽音に脳が侵されてしまう前に、私は切符売り場に並ぶ列から外れた場所でこちらに背を向けてうつむく、漆黒を腰まで伸ばした女の人を発見することができた。

 「ごめん、待った?」

 紅音は、小動物みたいに肩をびくりとさせ、光も影も呑み込む黒髪を小さく跳ねさせたが、小さく息を吐いて、そして僅かに意地悪そうなかんじで頷いた。

 それを見て私は、顔に影を落とした。意味も何もないが、彼女は私を試していたし、私も彼女を試した。

「私は美咲を待つ時間も好きだから、そんなに気にしなくてもいい」

 言い終わる前に私が吹き出し、彼女もつられて笑った。中央駅内の何百の人間の前で、私達は馬鹿みたいに笑った。人目なんか気にならなかった。

「はぁ、はぁ、朝からお腹が痛いわ」

「本当にね」

 そうして、列に並んでも私達は先程の一幕の余韻にクスクスと笑いを溢し、切符を買い終わる時までもそのまま笑い続けていた。


 

 「電車はあと十分後に来るらしいよ」

 目が悪い、著しく悪くなった私にかわって、紅音が電光掲示板を見てくれた。それを聞き、私は先導して、ホームへ続く長い階段を上る。紅音の話によると、電車に揺られること一時間、そうしたら海浜公園前という駅に着くらしい。私は、自分の内に眠っていた何やら熱いものが鼓動しながら湧きあがってくる感覚、人生で初めて高揚というものを覚えた。


 あれだけ駅の入り口には群がっていたのに、いざホームに来ると人は数えるほどしか居なかった。それは私達にとって天の救いだった。少し先にはもう誰も居ないが、そこまで歩くのは面倒に感じ、階段を上りきってすぐにある乗車口に並ぶ女性の後ろに並んだ。

電車が来るまで、私は線路の向こうの何故か灰色のフィルターみたいなものがかかったような空を見ていた。カラスが大空をゆくのを見送っていると、電車が到着するというアナウンスが鳴り響いた。アナウンスは日本語、英語、中国語と切り替わり、ちょうど全て言い終わった時、申し合わせたように電車が見えた。発展した都市の無駄の無さに感服する。

 その時、唐突にあの赤い蝶が現れた。ひらひらと落ちる花のように私の回りを舞ったかと思えば、目の前の女性の肩に止まった。電車はやってきて、私達の前を通りすぎる刹那、目の前の女性は弾けた。蝶は悠々と羽ばたく。破裂したような音が空をつんざき、一瞬にして女性は形を失った。血の雨がホームを汚し、肉は爆ぜて飛び散り、私の足元には女性の指らしきものがコロリと転がった。

「ハハ―ハハハ」

笑うしかなかった。

 紅音。辛そうだった。けれど、それよりも彼女の瞳にうつる自分の顔。何よりも醜くかった。傑作だ。

「ハハハ―ハハハハ―アハ」

 視界がドロドロ赤に染まって、蝶がおいでおいでと羽ばたいて、私の中の何かがプツンと音をたて、そして崩れ落ちた。

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