逆行 五

 


 三学期開始を告げる形だけの始業式がだらだら終わって、私は、我先にと教室を抜け出し、廊下を風に吹かれたように走る。だが、屋上へと続く埃臭い階段の一段目を踏みしだいた時点で、煤けたような緑の固い地面に足をとられたように身体が重くなった。二段、三段、四段......、以前は軽やかに上りきれたはずの階段に、歩を進めるたびに生命を奪われるみたいに感じた。冬休みの二週間でどれだけ命の砂時計が落ちたのだろう。人とは、たった二週間で五十年ほど歳をとれるのだろうか。わからない、わからないが、この髪の有様、この体力の有様は、二週間のうちに五十年ほど歳をとって老化したとしか説明仕様がない。

 「......美咲?」

 古い手垢まみれの手すりに寄りかかり亀のように歩を進めていたが、どうやら私はそれよりも鈍かったらしい。

 声のほうをゆっくり振り向く。目と目の照準が重なる前から彼女の眉間には悲痛そうに力がこもった。それを見た瞬間、愕然と力が身体の要から抜け落ちた。

 「美咲!」

 力がまったくどうにも抜け落ちた身体はまだ地面と接吻を交わしていない。私は超能力でも使えたのかしら。それとも魂が身体から抜け落ちたのかしら。どうやら後者らしい。その根拠として、天国を思わせるような優しく暖かな感覚が私を包んでいた。だが、それにしてはひどく疾走る心臓の鼓動と今にも途切れそうな心臓の鼓動が、私の胸から脳へと伝播してくる。気付くと、私は紅音に抱き止められていた。腕の力が強まり、肺が絞められていく感覚に安心した。

 「......ごめん、私、寝不足で......」

 ここに来て、私は初めて、紅音に道化を吐いた。絞り出すように声帯を萎めて。

「嘘ばっかり」

 吹き出したくなるほど簡単に見破られた。

「......本当よ。今日が楽しみで、昨日、ちょっと浮かれすぎたみたい......」

 「嘘ばっかり」

 紅音は震えながらも明るい声色で私の道化を一刀両断にする。本当に吹き出しそうになった瞬間、突然、何もかもが白く眩しく染まった。今度こそ死んだのかしら。いや、違った。視界を満たした白光が晴れると、次は痛いほどの冷風が瞳を刺した。いつもの屋上であった。どうやら、紅音に肩を貸してもらっていたようだ。

「今日は特に寒いね」

 そう空に呟きながら、いつものベンチに座らせてくれた。彼女も隣に畳まれるかのように静かに座った。そして、私の髪を確かめるように何度も撫でた。彼女は何も言わなかった。ただ、撫でて、解いて、しただけだった。そして、沈黙してしまった。

 ......押し黙るくらいならいっそ、その髪なに?って、笑い飛ばしてほしかった。いや、私が髪を見せたのがいけなかったんだ。何故、隠さなかったのだろう。方法なら幾らでもあったはずなのに。以前の私なら必ずこの髪をどうにかして誤魔化していただろう。それが、人間への恐怖から来る、悲しいまでの習性であったからだ。だが、何故だ。私は彼女に同情されたかったのか、それとも誰かに軽蔑されたかったのか。空が不機嫌にひゅうひゅう泣く中、私は自身の変化とも言える初めての失態に困惑していた。

 飛行機が暗雲をゆく音が心臓に轟く。鼓動は逸り、この場の何もかもが、私を蝕み削っていく。

 私は紅音がこの気難しい沈黙を破ってくれるのを心待ちにした。けれど、彼女はこの場の空気そのものみたいな表情になって、話し出す気配は見えない。

 刻々と今が過ぎ行く中、私は沈黙や失態や気難しさなどどうでもよくなって、一つの決断をした。

何よりも、たった一つの宝物である“今日”をせめて少しの意味のあるものにしたいと思った。

「ねぇ」

 紅音は虚空の雲から私へ視線を移す。彼女の雪を思わせた頬は北風に刺され、痛々しく赤らんでいた。

 「......私ね、実はまだ海を見たことがないの。今度の休み、一緒に見に行かない?」

 私の場の空気とやらを無視した突然の誘いに、目を軽く見開きながらも聞きとげた紅音は、意気良く立ち上がり、大きく頷いた。そして、私に手を差し出した。冬休み前のあの日みたいに。その時、彼女の後ろの暗雲の隙間から陽がチラッと顔を覗かせ、私はまた白光に視力を奪われ、眩い暗闇の中、直感で紅音の手を探した。紅音は小さく笑って、あらぬところをさ迷っていた私の手を横の方からかっさらい、そして両の手でぎゅっと私の穢れた手を包み込んだ。

「......じゃあ、今週の土曜日、中央駅に集合でいい?」

「うん、いいよ」

「......土曜日は晴れるみたいだし、きっと綺麗な海が見れるよ」

「楽しみ」

私がそう言うと、彼女は私に小指を突き出した。私は、彼女の意を汲んで、自身の小指を突き出された小指に絡める。

 叶わない約束をした。




 

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