蝶 一



 ある日の帰路の途中だった。紅音と別れた私は、商店街の陽気と行き交う人々の、その空しい靴音の中に混じる、微かな掠れた泣き声のようなものをしっかりと耳に捉えました。

 興味が湧き私は、その声の方がしたほうへ、すぐ左手の路地に入った。賑わう商店街の大通りから一歩左折しただけだというのに、こちらは、まるで向こうの世界から隔離されているかのように暗く静まりかえり、人々の声が遠くに聞こえる。

 泣き声の主を探し、路地の闇を進んだ。空気が冷たく、重い。かつて本で読んだ「冥界」とはこんなところなのだろうか、そんなことをのほほんと思った矢先、私は泣き声の主を発見しました。

 冷たく黒いコンクリートの地面に、血反吐を吐き、倒れる犬。所々皮膚が黒く変色しており、毛は見るも無惨に抜け落ち、ホラー映画で見た街を闊歩する屍のように醜くこけていた。

 それでも、骨が今にも浮き出そうな前脚を必死に動かし、舌を伸ばし、涎を垂らし、目を潤ませ、口を何度も開閉し、命を振り絞ってその掠れた泣き声を微かに発していた。

 「生きたい」「死にたくない」「助けて」

 親犬、元飼い主、商店街に行き交う人々、神様、私。だれに向けてかはわからないが、この犬は最後の力を振り絞って、そうだれかに懇願しているように思えた。その様が視界に、脳裏に異様に焼き付き、私はたまらず手で顔を覆った。

 ――これは、私だ。飢え、摩耗し、泣き、涎を垂らし、足掻き、拗れ、死に絶える。これは私の生を体現したものだ。

 私は歪んでいく頬と心を必死に抑えていたところ、犬はそんな私の顔を恐る恐るといったかんじで覗きこんだ。その目は救いを求めていた。顔を覆ってへたりこんでいた私はふらふらと立ちあがり、そしてそれに応えるかのように、犬の側にしゃがみこむ。犬は少し安堵したのか、歪められたしわくちゃの表情は幾分和らいだかのような気がした。

 犬は、食い入るように、鞄の中身を漁る私を見ていた。あれだけ弱り、媚びた瞳は、欲にまみれた浅ましき獣の眼光を、鋭く放っており、その様を私は横目で見ていた。

 私が取り出したものを、犬は、それがナニなのかわからない。例えそれがナニか知っていたとしても、瀕死の身では把握出来ないだろう。ただ、何かを与えてくれると、涎を垂らして笑っていた。

 ああ、与えてやるとも。

 これは、これが、自分だ。そう何度も自分に言い聞かし、俺は、この素晴らしく醜く、滑稽で、憐れな姿を、自分の腐った瞳に焼き付けた。そして手に取ったそれを、全力を以て犬の心臓へ打ち込んだ。

 泥沼を踏み抜いたかのような音がして、カラスが目の前の建物の屋根に止まった。犬の胸部に付き立った柄。その柄の根元と黄ばんだ牙の隙間から赤い液が滔々と溢れ出す。柄を握り、今なお押し込む自分。犬の乱れた心臓の鼓動が、柄を通して脳に響く。その振動と反響に陶酔しそうだった。

 痙攣する前脚、回る目玉、はぜる心臓。一気に柄を引き抜いてやると、乾電池が外れたおもちゃのようにパタッと静止した。

 犬の心臓を穿ち引き裂いた刃は、犬の血と命を吸って、なまめかしい輝きを得ていた。それに命の美しさと形容しようか、そんな芸術的な、神秘的な美を私は見た。

 犬の胸と口からは、まだ血が流れていた。何かが頭上で喚いている。見上げると、空は血のように赤く染まり、カラスが四五羽、円を描いて飛んでいた。

 “私”を殺した。だが、当然、自分の内の私は死んでなどいない。俺はそれがたまらなく不快で、やるせなくて、徒労に思えた。犬に私の姿を勝手に重ねて、そしてそれを殺して、不快な己を抹消しようなんてどだい無理な話である。わかっているのだけど、これが自分の愚かな本性であり性質だった。

 この事を誰かに、そう、世間に打ち明かしてみたとしよう。すると世間は、こんな自分を異常者だとかって呼び、突き放し、哀れみ、淘汰するのだろうか。

 もう、いいじゃないか。そう思えた。誰だって、何かに酔っていないと生きていくことができないのだから。

そう、皆が恋や、青春、酒、金、力に酔っているように、自分はひた隠しにし続けてきた己の醜さにいつしか酔ってしまっていたのだろう。

 自分は今日初めて、これまでの生涯、あれだけ命をかけて律してきた“自分”を押さえつけることができなかった。

 一度自分を縛り付けていた糸が切れた今、もう俺は普通の生涯を送ることは出来ないだろう。

 もう、腹の底から湧き出てくるこの醜い感情を、押さえつけることが出来ないのだから。

 悲しいのか楽しいのかわからなくなって俺は、顔の無くなったこのけもくじゃらの彫刻をカラスにやるのはいささか勿体無いと思って、それを引摺って歩き、人々が商店外へ吐き出されたタイミングを見計らい、往来の真ん中にそれを捨てて、油のような液体がまとわりついた不快な指で髪をいじりながら、帰路を歩いた。ずっとひくつくような笑い声がすっからかんの脳に響いていた。

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