逆行 一

――何のために生きているのか。

 今日も独り、屋上へと続く埃臭い階段を上りながら、私は答えを求め続けている。

 それは幸せになるためだろうか? 大人になるためだろうか? 金持ちになるためだろうか? 結婚するためだろうか?誰かのためだろうか?

 物心ついたころから、高校生となった今まで、実に様々な“理由”を探がし続けたが、一向に、真摯に熱心に生きようと思えるような、そんな“理由”は見つからなかった。

 そんな私は、放課後、校舎を支配する喧騒を抜け、屋上へと向かう。それは私の日課となっていた。

 唯一、悪意も汚れもしがらみもないただ遥かに広がる空を眺めているときだけ、私は身も心もその無垢の天空に吸い込まれていくかのような解放感を得ることができた。それが、今の私をギリギリの所で現世に繋ぎ止めていた。

 仄暗い塔屋を抜け、いちいち耳に障る音を鳴らすドアノブを捻る。外の光が射し込んで、それに目を焼かれるのも最早日常となっていた。そして、古びたドアを完全に開けたその先には、屋上の四方を囲む錆びたフェンスと、青の塗装の剥げたベンチ一つ以外何もない空間が広がっていた。だが、今日はいつもの見慣れた光景にもう一つ、私の目にうつったものがあった。

 屋上の中央で膝を抱える、光すら飲み込む漆黒の髪を腰まで伸ばした女の人。彼女は、小動物のように敏感に肩を震わせ、私のほうを反射運動と形容したくなるほどの速さで振り向くと、またすぐにそっぽを向いた。だがその刹那、偶然か必然か、私と彼女は目があった。彼女は泣いていた。

 私は不快感を覚えた。自分だけの領域を侵されたからであった。私が泣きたかった。私をギリギリ繋ぎ止めていた何かが、プツンと音を立ててもおかしくはなかった。


 「......大丈夫?」

 

 だが、私は、唯一の取り柄である、狡猾なおべっか精神を以て、彼女に手を差し出してしまった。彼女は恐る恐る私が差し出した手を握った。

 次の日も、また次の日も、彼女は屋上にきて、二人、並んで同じように膝を抱えて縮こまり、毎日顔を変える空と流れていく雲を、白痴のようにただ眺めていた。

 一月ほど経ったある日、唐突に彼女が口を開いた。彼岸頃だった。

「彼岸花がとても綺麗に咲いているところがあるんだけど、一緒に見に行かない?」

 私は、生来、他人からの誘いをどうしても断れないという性癖とも呼べる習性を持っており、それがどんなに嫌なことであっても、「うん」と頷き、笑顔で取り繕ってしまうのだ。

 だが、彼女には不思議と取り繕う気が起きず、心から自然に頷くことが出来た。

 

 そこは、私達の通う学校区の北にある湖にあった。その湖は紅葉がとても綺麗なことで有名で、秋が深まると、県外からも人が来るスポットであった。

 彼女は、歩きやすいよう整備された道から外れ、草が生い茂るところを進んで行った。そんな道を通るのかと、私は幻滅して帰りたくなったが、彼女は口や顔にこそ出さないが意気揚々とした足取りで歩を進めている。その意気を汲み取って私は内心嫌がりながらついていった。だが、それほど苦でもなかったのが、この道を踏破したあとの感想だ。彼女は何回かここを通っているのか、それとも獣道なのかは知らないが、この茂る背高草を何とか掻き分けなくても進める道ではあって、煩わしさ等は感じなかった。

 その日ばかりは、私が自分の意思に素直じゃなくて良かったと思えた。その草の道を抜けると、写真やテレビでも見たことないほどの数の鮮烈な赤色の彼岸花が、視界いっぱいに飛び込んできたからだ。その奥には湖が静かに広がり、それらの赤と青のコントラストは、言葉では形容し難い雰囲気を醸し、現世と彼岸の狭間にできた光景のように思えて、私は目を奪われその場に立ち尽くした。こんなの生まれて初めてのことだった。

「どう?綺麗でしょ?」

「ええ、こんな花畑初めて見たわ」

「よかった、喜んでもらえて。あなたのそんな顔初めて見たわ」

「え?」と、私はあからさまに首を傾げてしまった。

「だってあなた、いつもどこかびくびくしてて、その上退屈そうに笑っているんだもの。私にはわかるのよ。でも今日は目が輝いてて、心底嬉しそう」

そう言うと彼女は小さく笑った。

 私の擬態とも呼べる得意の道化を見破られ、それを彼女に口出されるなど、私は当然予期にもしてなかった。

 これまで、何度も自身の化けの皮を見破られた時の事を頭の中で思い描いてみたことがあった。その時は決まって、己の空想だというのに心臓が破裂しそうになり、脳が焼けるように痛み、絶望した。そんなことが現実に起きないことを祈っていた。

だが、不思議と私は一つも取り乱さなかった。むしろ、本心を話したい、腹の内を曝け出したい。そんな、大衆に混じり込み人間の悪意や敵意を避けてやり過ごしてきたこの自分の今までの生を全否定した感情が湧きだしてきたのだ。

 どうしたらいいかわからなくなって、私は屈んで、燃えているように花弁を力強く開く彼岸花をただ見つめた。

 しばらくの無言。日が傾き、空は綺麗に赤らみ始める。風が彼岸花をそよがし、カラスが遠くで鳴いていた。それらが耳を通して心臓を刺すかのようだった。

「私ね」

 彼女が変に張り詰めた空気を破った。私は、彼岸花から彼女へと視線を移す。夕焼けの赤光すら呑み込む彼女の黒髪はそよぐ風にあわせて、一本一本が絡まることなくしなやかに揺れていた。綺麗だと思った。

紅音あかねっていうの」

笑いながらそう言った。

 名は人を表すとはいうが、陽の赤光すら呑み込む深い闇を背に飼う彼女にとって、それは皮肉のように思えた。それに彼女自身、自分の名を嘲っているようでもあった。

 「ねぇ、よかったらあなたの名前教えてくれない?」

 私は、自己の紹介というものを死にたくなるほど嫌悪していたし、できることならしたくないものだ、と毎年春がやってくるたびそう思っていた。マジョリティの中に紛れて、私という人間を周りに確と認知させたくなかったのである。周りを刺激しない、薄っぺらな善人としてありたかったのだ。だが私は、彼女に何を思ったのだろうか。息を吸って吐くように、驚くほど自然に自分の名を口に出せた。これも初めてのことだった。

 「私は美咲。美しく咲くって書いて、みさき」

「美咲。あなたに相応しい、いい名前ね」

私は薄っぺらい愛想笑いを顔面に貼り付けることしかできなかった。いっそ、何が美咲だ、何が美しく咲くだ、と笑い飛ばしてほしいとまで思った。それならいっそ続きで、今まで必死にひた隠してきた自分の、何よりも醜くどす黒い腹の内をこの場で全て曝け出してしまおうか。そんなことを考えたが、やはり自分の内の性癖が、今の私の本心とぐるぐる競り合って、その末拗れて消えてしまった。

 結局、その日は、二人名を教えあうだけで、日が暮れるまで、依然燃える彼岸花と、その先の黄金色に輝く湖を眺めていた。


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