順行
雨に溶けた身体とがらんとした心を引摺ってやってきた私は、前に一度だけ来た彼女の家の扉の前に立ち尽くす。鍵が掛かっていないことを不思議と確信していた私は、刺すように冷たいドアノブを回し、覗いた目先の、奈落の奥底に蔓延るような真の闇に、それこそ火に身投げする夏の蛾のように、自分から呑み込まれていく。闇が身体中に絡まって、泥沼に嵌まっていくかのようだった。
なら、進む毎に大口を広げる足下の闇は私の墓穴だ。そんなことをふらふら妄想していたら、いつの日か「綺麗ね」と褒められた自慢の手のひらに引っ掛かるものがあった。反射的に、それを押すと、軽快な音が真っ暗な虚無に響き、光が重苦しく蔓延っていた闇を払う。あらわになった自分のではない住まいの内装は、ひどく寂々としていた。
私は、ずぶ濡れた足と逸る空々の心の思うまま、階段をあがった。あがった先のすぐ正面には扉があった。左右にも扉があり、それらは開きっぱなしで、生活感が微塵も感じられない空っぽな様をさらしていた。それに反して正面の扉は閉ざされていた。そこに入ろうとしたが、躊躇ってしまう弱々しい私がいた。それでも、私は躊躇いを殺し、扉を開けた。すると、この部屋にだけ、つい先程まで人が生活していたとわかるほど、気配の残り香みたいなもの、あるいは瘴気だろうか、そんなものが漂っていた。私は思い出したかのように息を深く吸って、部屋を見渡す。
「......女の子らしくない部屋」
室内の半分を占領する大きな本棚、片隅に忘れられた楽器ケース、壁にかけられた黒コート、勉強机。これらのほとんどを、私は知っていた。次は味わうように息を吸い込むと、本の紙やインクの匂いの中に彼女を感じた。それに私は目が熱く痛くなった。
ふと、勉強机に置かれた紙が目に入った。そこには、「手記」と表題された原稿用紙十数枚と、大半を無惨にも破られた原稿用紙が一枚置かれていた。
それらが何故かたまらなく愛しく、また懐かしく思えて、いつかの錆びゆく日々の中で彼女にそうしたように優しく撫でてしまう。
殴り書かれた文字は、お世辞にも、綺麗とは言えなかった。だが、それを見ていると、ぽとぽとと原稿に大粒の雨粒のようなものが落ち、円状の黒い染みをいくつか作った。雨は止むことを知らない、いや、雨はどうやら私の瞳から降っているようだった。私の瞳から零れた涙であった。それを悟った瞬間、膝の力が抜け落ち、私は深い藍色のカーペットにへたりこんでしまう。その藍色は、いつかの日々の、彼女との帰り道にふと見上げたあの空の色に似ていた。雨はなおも止まず、勢いを増すばかりで、藍色のカーペットを夜色に染め上げる。
立ち上がる力など、もうどうにも湧かなかった。眠気がどっと襲ってきて、意識が霞み、脳は蕩け、視界は闇に蝕まれていく。薄れいく意識のなかで鼓動が止まるのを願った。
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