第2話 コンポート
昔から、心を落ち着かせたい時、私はコンポートを作ることにしていた。それは、大人になり、東京で一人暮らしをするようになってからも変わらない。
秋から冬にかけて、蜜ののった林檎が実家から大量に送られてくる。その時期は、六畳半のアパートの一角を、箱いっぱいの禁断の果実が占めることになる。それらを消費するという目的もあった。
けれど、林檎を煮込んでいく時のことことという柔らかい音と、部屋を満たしていく黄金色と甘い匂いと、何もせずに鍋の前に立っている時間が、私は好きだった。
***
あの冬私は、いつにも増して沢山のコンポートを作った。冷蔵庫の奥は、甘くてのったりしたコンポートの瓶で満たされていた。
「丁寧な暮らしをしているんですね」
彼は、初めて私の部屋に来た時、そう言って微笑んだ。
気合いを入れて初めて作ったローストビーフより、普段からよく作っていたポトフのほうを、彼はよく食べた。彼が持ってきてくれた赤ワインを二人で開けて、デザートにはヨーグルトと、沢山作ってあった林檎のコンポートを出した。
「貴方がこれを作っているのを、見ていたかったな」
彼はそう言った。
それから数時間、彼は私の絵を描いた。
彼の藍色の瞳に見つめられるほど、私は私という存在が、林檎が煮込まれていくように、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
彼はいつも、日付を変わる前に帰って行った。
***
あれからどれくらい経っただろう。
私は今も、彼と出逢った街の、彼と過ごした部屋に、一人で住んでいる。
今朝、冷蔵庫の奥で、冷たくなって眠っているコンポートの瓶を見つけた。私はそれを、トーストにたっぷり塗って食べた。
ここにあるのは、あの頃とそれほど変わらない日々だった。けれど私は少し年を取り、彼はもう存在しなかった。
悲しみを飼い慣らすのに、随分と時間がかかってしまった。
思い出として心に収めるには、彼はあまりにも、眩しすぎた。初冬の日差しを受けて輝く雪のように。
今日は、少しだけ、あの人の思い出に浸ろうか。
もしかしたら少しだけ、私は泣くかもしれない。
私はアラベスク模様のコースターの上に、熱いコーヒーカップを置いた。そして、壁に飾られた、彼の絵を眺めた。
それは、どこかの森の中、柔らかな光に満たされた場所で、小鍋をかき混ぜている一人の少女の絵だった。
***
貴方へ、
お元気ですか。
私は元気です。
どうか貴方の夜が、少しだけ寂しいものでありますように。
私という存在が、貴方の中で、思い出になりきれないままでありますように。
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