いつか透明な湖の底で

夕空心月

第1話 アラベスク

あれは、あまりに冷たくて、あまりに美しい冬の日だった。


私は、街の片隅にある、小さなアトリエにいた。名前を知らない芸術家が、三年ほどかけて描いた絵の数々を展示するイベントを開催していた。

別に、入ろうと思っていた訳ではなかった。ただ、通りすぎる時、何気なく覗いた入り口の向こう側に見えた絵に、惹き付けられるようにふらりと足を踏み入れてしまった。


それは不思議な模様だった。幾何学的、と言えば良いのか。意識ごと吸い込まれてしまうような、万華鏡の世界を覗いているような。


「アラベスク、と言うんですよ」


声がして、私は振り返った。


そこに、彼がいた。


真っ白なセーター、細い銀縁のメガネ、肌ははっとするほど白く、触れたらほろほろと崩れてしまいそうな砂糖菓子を思わせた。長い前髪の向こうに、藍色をした瞳が二つ、静かな視線をこちらに向けていた。


「モスクの壁面見られる、イスラム美術のひとつです。主に植物や動物の形をもととした、幾何学的な文様の反復で作られています」


彼の声は透明で温度が低く、冬の冷たい窓ガラスのようだった。


出逢ってしまった、と思った。

私はこの人に出逢うために、ここにやって来たのだ、と思った。


「綺麗ですね」

私は言った。

「綺麗です」

彼は微笑んだ。


私はその絵が欲しくて堪らなくなった。けれど、彼のそばを離れたら、その絵は決定的な何かを失ってしまうような気がした。


「良ければ」

彼は言った。

「貴方のために、絵を書かせていただけませんか」


もう戻れない、と思った。

私は永遠に手を伸ばしてしまった、と思った。


外では雪が降り始めていた。初雪だった。

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