バカな子ほど可愛い

 高校入学。

 これまでの地元中心の狭い世界を抜け出してまるで知らない人たちの中に飛び出す時。

 それを機会に今までの自分を変えたいと思うのはよくあることだ。

 不本意な自分は封印しよう。


「オカマだなんてもう誰にも言わせないんだから。いや、言わせねえぜ」


 アタシはそう心に誓って新しい学校の門をくぐったのだった。


 男らしい外見から飛び出す女言葉はどこに行っても奇異の目で見られ、散々嫌な思いをしてきた。

 そんな自分を知らないこの世界で、染み付いてしまっているこの癖をなんとか直していこうと努力しているのだ。

 入学して一週間、校内では一時も気を抜かずにいい男を続けている。若干無口になってしまうのは仕方がない。逆にクールだとかそんな未だかつて言われたことがないような属性が付加されていていいのかもしれない。

 菅谷くんってかっこいいよね、なんて噂が流れ始めているのを感じて、これは自分改革成功だなと少し調子に乗り始めたころだった。


「ねえ、菅谷くん、菅谷くん」


 出来ればあまり口を開きたくないというのに、授業中休み時間問わずびっくりするぐらい頻繁に話しかけてくるのは、隣の席の韮沢享也。


「ん?」

「これって何て読むの?」


 ホームルームで担任がしゃべっている最中、先ほど配られたプリントを広げて、その文字を指差す。


「新歓イベント」

「しんかん…?て何?」

「新入生歓迎、だろ」


 この一週間でわかったのは、彼がとんでもなくおバカさんだということ。一日に何十回とこの手の質問を繰り返すのだ。いずれも小学生レベルぐらいの質問である。

 姿勢の良さと一つ一つの動作の上品さで、黙っていれば真面目で賢そうに見えるのだけれど、口を開けばその内容の低レベルさが痛々しく残念でならない。

 出席番号順でたまたま隣の席になってしまっただけなのだが、初対面のその日から今日までに一体いくつの質問をぶつけられただろうか。わからないことが一体どれほど存在するのか。

 たまには反対側の隣にも聞いてくれと思うのだけれど、どうも気に入られてしまっているらしい。

 教えてあげればニコニコと汚れのない赤ん坊のようにまぶしい笑顔を向けてありがとうといちいち律儀に頭を下げる。

 あんまりしゃべるとぼろが出るし厄介なやつだと思うのだけれど、そんなところにうっかり喜びを感じてしまうからいけない。


「来週から実力テストが始まるということで、今日からテスト週間に入ります。この期間は部活動など放課後の活動が一切なくなります。入学したての君たちにはあまり関係ないかもしれないけどな、授業が終わったら速やかに帰宅してテスト勉強するように」


 担任の言葉に耳を傾けつつちらりと隣を見やれば、テストという言葉に反応したのか、彼は大げさに頭を抱えていた。


(大丈夫かしら、この子)


 ヘタをすれば問題文の漢字が読めないとかいうレベルのような気がする。

 さすがにテスト中にまで「これ何て読むの?」なんて訊ねはしないだろうと思うが、リアルに0点の答案を見てしまいそうで怖い。


「あー、先生からこんなことを言うのはどうかと思うんだが…みんなもだいたい気付いているように、先生は韮沢が不安なんだ。同じクラスになったよしみで、みんなで彼を助けてやってくれないか」


 担任も同じことを思ったらしい。こんなことをクラス全員の前で堂々と告げてしまうぐらい、彼のおバカさんっぷりは誰の目にも明らかで、そして彼自身も自覚しているようだった。

 「仕方がない」その言葉一つでいろんなことが許されてしまうのは、それほどどうしようもないレベルであることとともに、そう思わせる彼の人格でもある。

 物は知らないけれど上品な物腰と素直な可愛らしさ、それから情緒あふれた多彩な表情は、バカにしたりいじめの対象になったりするのではなく、何とかしてあげたいという庇護欲をかきたてる。


「それでな、先生考えたんだが、先生だけではフォローしきれないから、韮沢係を作ろうと思うんだ。クラスの係は他に何もやらなくていいから韮沢のフォローをしてやってほしい。ということで、菅谷、頼むな。仲良くしているんだろう?」


 そんなバカな、なんて笑いながら人ごとのように聞いていたけれど、唐突に矛先がこちらに向く。名指しで決定事項になっているではないか。


「あ、アタシ!?」


 驚いた拍子につい叫んでしまった。やばっと思って手で口を塞いだけれど、既にこぼれてしまった言葉が戻るはずもなく。

 クラスの目が一斉にこちらを向くのを感じて下を向く。


 たった一言でおかしいとわかる、一番ダメな言葉を言ってしまった。

 がらがらと、積み上げてきたものが崩れ去るのを感じた。

 教室内に漂う微妙な空気が耐えられない。このまま走って逃げ去りたい。


「やった!よろしくね、菅谷くん」


 だけどこの人だけはそんな空気なんておかまいなく、何がそんなに嬉しかったのか喜び全開の顔でこちらに向かって握手の手を差し出した。


「俺、ほんっとバカだけどごめんね。でもいつも菅谷くんはちゃんと俺の相手をしてくれるから好きなんだ」


 静まり返った教室に響き渡るどこまでもピュアな言葉。

 なんだろう、この、こだわっていた何もかもがどうでもよくなるような感覚は。

 作り固められた自分がものすごく滑稽なものに思えてくる。

 嘘とか虚勢とか、そういうものとは全く無縁に、ありのままのバカ丸出しで生きている彼を見て、自分の姑息さが嫌になる。


「…ったく、しょうがないわね。アタシが面倒見てあげるわよ」


 小さな小さな声で呟いて、差し出された手を握り返す。

 えへへとちょっと照れた彼は、妙に暖かい両手でアタシの手を包んで上下に大きく振った。


「で、さあ。菅谷くんはオカマちゃんなの?」


 そんなデリケートな質問を、大きな声でけろっと言ってみせる彼はほんとうにどうしようもないおバカさんだ。知識がないとかそれだけのレベルではない。


「違うわよ!バカじゃないの!?」


 思わず声を荒げる。怒ったわけではない、呆れたのだ。そんなこと、面と向かって聞かれるなんて、初めてだ。


「違うの?そっか。じゃあ女の子扱いしなくていいんだね。よかった~。俺、そういうのだめなんだよね、デリ…デリ……あっ、デリバリーないから」

「あっ、じゃないわよ。思い出したみたいな顔してるけど間違ってるから!デリカシーでしょ」

「あ、そうそう、それ」


 不自然に自分を固めていた殻が砕けてしまったら、思ったよりもすごく清々しかった。後悔よりも、心が解放される気持ちよさが勝る。

 あっはっはっと大口を開けて笑い、馬鹿な彼と、そして馬鹿な自分を愛しく思う。


「菅谷くん、なんで今まで隠してたの?この方が全然いいじゃん。そんなにいい顔で笑うの、俺初めて見たよ?」


 変に気を使ったわけでもない心からの彼の言葉に、不覚にも泣きそうになる。

 自分が自分らしくあることをこんなにも当たり前に肯定してくれたのは、家族以外では彼が初めてだった。


 無理をする必要なんて、ないのかもしれない。


「え、なんで?オカマちゃんじゃないならなんでそんなオネエ言葉?」


 どこまでもデリカシーなく土足で突っ込んでくる。けれど不快に思わないのはなぜだろうか。


「うちに男がいなかったのね。お父さんは海外に単身赴任でめったに帰ってこなかったし、お母さんとおばあちゃんと3人のお姉ちゃんの中で育ったから気付けばこれが普通だったのよ。幼稚園までは格好も女の子だったわよ。全部お姉ちゃんのお古でアタシのためだけのものなんて買ってもらえなかったわ」


 いつの間にかそんな身の上話までしてしまう。

 すべてが許されると思わせる何かが彼にはある。どんな自分でも受け入れられる安心感はアタシを饒舌にする。

 もともと、無口とはほど遠い人間なのだ。おしゃべり好きで世話好きで、言葉だけでなくそういうところも育った環境が影響しているのかもしれない。


「幼いころはアタシも可愛かったからよかったんだけど、さすがに見た目がこうなってくるとおかしいぞってことに気がついちゃうじゃない?それで服とかもちゃんと男物を買ってもらうようになったんだけど、しゃべり方だけは直らなくて、未だにこんな感じ」

「いいじゃん、それはそれで。魅力的だと思うよ?」

「そんなこと思うのあんただけよ。気持ち悪いとかオカマとかずっと言われてきたのよ。だから男らしくいこうと思って頑張ってたのに、あんたのせいで台無し」

「大丈夫だよ、菅谷くんすっごいいいやつじゃん。高校生にもなってそんなガキみたいないじめしないよなあ、みんな?」


 教室中をぐるっと見まわして、彼はいたって真面目に言い渡した。彼のストレートな言葉は不思議とすとんと人の心の中に入り込む。他人の言葉遣いを笑うなんて馬鹿らしいと、みんなは思ってくれただろうか。


「そうだよ。私はそんなの気にしないね」


 しんとした中、大きな声できっぱりとそう宣言したのは、教室のど真ん中で存在感を放つ美人の大前さん。目が合うとぐっと親指を立ててみせる。


 ざわざわと、そうだよね、という雰囲気が教室中に広がっていくのを感じた。

 自分が認められていく瞬間を、教室中に浸透していく瞬間を、こんなふうにありありと感じたことがある人間なんて他にいるだろうか。


 アタシは幸せ者だ。


 彼がたまたま隣になったことがこんなに幸運を引き寄せる。


「菅谷くん…」

「ヒロでいいよ」


 もっと彼と仲良くなれば、もっとアタシは幸せを感じることが出来るだろうか。


「じゃ、俺もキョウヤで」


 キョウヤはとんでもないおバカさんだけれど、人より足りない分、人が持ち得ない何かを持っているのかもしれない。

 いくら勉強したって努力したって手に入らない天性のもの。

 アタシにはそれがとても魅力的に見えた。



<終>

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