そこまでいくから

月之 雫

そこまでいくから

 高校に入学してから少し経ったうららかな春の放課後、誰もいなくなった教室で机の上にプリントを広げた俺は、はははと力なく笑いながら、隣で頭を抱えるヒロを見つめた。


「ごめん、キョーちゃん、あんたが何を分からないのかがアタシには分からないわ」


 そんなオネエ言葉だけれど、ヒロはれっきとした男だ。俺よりも背が高くて、整った顔立ちは奇麗だけれど女っぽいわけでもなく、今時流行りの清潔感にあふれた格好良い見た目とその口調とのギャップはとてつもない。きっと、口を開かなければ恐ろしく女にもてるに違いないと思うのだ。いや、その人当たりの良さから、口を開いても男女共にかなり人気は高い。けれど、恋愛対象よりも友人の側に寄ってしまうのは明らかにその口調のせいだろうと思う。損とか得とかそういうことではなく、ヒロというのはそういう奴だった。


「ああ、だって俺もわかんねえもん」


 俺はまるで人事のように言いながら、くしゃくしゃと頭をかき混ぜるヒロのうなじのあたりでフワフワと揺れる茶色い癖っ毛を触りたくてうずうずしていた。


 現在、ヒロは貴重な放課後の時間を割いて、馬鹿な俺のために本日の宿題を教えてくれている最中である。

 にもかかわらず、俺はまるで上の空、気付けばプリントではなくヒロばかり見てしまっている。


 ヒロが好きだ。


 そう気付いたのはわりと早かった。基本、欲望には忠実に生きているのだ。小難しい理屈を考える脳みそは俺にはない。


「困ったわね。なんで教えた通りにやっても答えがまるで見当違いなのかしら」


 入学して一番初めに出席番号順に並んだ席で、たまたま俺の隣になったヒロ。俺のバカさ加減に途方に暮れた担任の一存で俺の面倒を見る係みたいなことになってしまったわけだが、もともと世話焼きな性格のヒロはさして文句も言わずつきあってくれる。これまで、あらゆる先生が匙を投げてきたというのに、ヒロの人間性ときたらそれはもうあっぱれだ。


「ねえ、もしかして九九できない?」

「バカにするな。1から3の段と5の段は言えるぞ」

「…それ全然胸はって言えることじゃないわよ。ってかさ、かけ算どころか足し算引き算も危うくない?」

「だって、計算機がないんだ」

「普通使わないでしょ。学校の勉強で計算機はないでしょ」

「中学のときは先生が使えって」

「嘘でしょ!?」

「使わないと一個も丸もらえないし」

「かわいそうっ、気の毒すぎるわ、そうせざるを得なかった先生が」


 そんな風に嘆きながらも、ヒロはいつだって俺をバカにすることなく一から丁寧に教えてくれる。こんなことしたってヒロには何のメリットもないのに。

 そんなところに愛情を感じてしまうのは俺のお気楽な軽い脳みその成せる勘違いってやつだろうか。


「あんた、それでよくこの学校合格したわね」

「だって俺、裏口入学だもん。金で何とかなったらしいよ?」


 俺の言葉にしばし目を丸くしたヒロは、その後腹を抱えて笑い出した。


「キョーちゃんのそういう裏表のないところ最高だわ」


 俺の家はそこそこ大きな会社を経営していて、親父が社長、俺はいわゆる御曹子ってやつだ。残念な脳みそに生まれてきてしまった俺をなんとかしようと、親父はおそらく大量の金を注ぎ込んでいるのだろう。それは世間的にはあまり良くないことかもしれないけれど、俺の頭があまりにもなので、それも仕方がないと周りはわりと思うらしいし、俺自身もそう思う。


「バカでも入れる学校じゃあダメなんだってさ。まだまだ学歴が物を言う社会なんだって親父がさ」

「キョーちゃん、一人息子なんでしょう?あんたに会社を託すのかと思ったら、お父さんも気の毒よね」

「うん、俺もそう思う。だからさ、できる嫁をもらえってのが絶対命令」


 恋愛結婚がしたいなんてわがままを言える立場ではないことは重々承知している。俺にとって恋愛と結婚は別物だ。それはもう、恋というものを知る前から懇々と言われてきたことだから抵抗はないけれど、それでも、できれば好きな人と一緒になりたいと思うのは、人間であるのだからしょうがない思いだ。


「ヒロ、俺の嫁にならない?」


 もしもそれができるのならと、淡い夢を抱くことだってある。

 好きな相手が条件を満たすのならば、こんなに幸せなことはない。

 ヒロだったら会社の経営だって上手にやっていける気がする。ずば抜けて成績がいいわけではないけれど平均よりは上にいるし、何といっても人付き合いの上手さと人に対する気の使い方が抜群で、それは社長という職にとってとても有用だと思うのだ。

 会社のトップとして、というか、普通の人間としても、俺に足りないものをヒロは全部持っている気がする。まっすぐ生きることしか知らない馬鹿な俺とは正反対だ。だからこそ、惹かれてやまない。その眩しさを手に入れたいと希う。


 だから、俺のプロポーズはわりと本気だったのだけれど。


「あのねぇ、アタシ性転換する気ないから。そういう人種じゃないの」


 ヒロはわざとらしく眉間にしわを寄せてそう言った。

 別に怒っているわけではないのだけれど、俺の提案が受け入れられなかったことは確かだ。


「知ってるよ。言ってみただけ」


 言葉使いとは裏腹にヒロの心がしっかりと男なのはわかっている。女系家族の中で育った影響でその癖が抜けないのだと前に聞いた。


「結婚相手はきっと親父がいい女を見つけてくると思うし」


 そこに心がなくたってきっと成立するのだ。悲しいけれど、そういう世界だ。


「じゃあさ、ヒロ。嫁にならなくてもいいから俺の恋人にならない?」


 身を乗り出してぐっと顔を近付けた俺は、我慢できずにヒロのフワフワの後ろ髪に触れる。くるくるっと人差し指に巻き付けるその感触がなんとも気持ちがいい。


「だ、だからね、アタシは性転換する気は…」


 もう一度同じ言葉を繰り返すヒロは、だけれど先ほどとは違って耳を真っ赤にしてうろたえている。もしかして、案外脈ありなんじゃないだろうか。


「いいんだよ、嫁じゃないんだから男でも」

「いやいや、よくないでしょ」


 くすぐったそうにしながらも、俺の手を振払う様子もないので、俺は調子に乗ってヒロの髪をいじり続ける。そんなに長いわけではないが、柔らかい癖っ毛は指に気持ち良く絡んでくる。


「俺さ、結婚相手が自由にならない分、恋愛は悔いがないようにたくさんしておけって言われてるんだ。それこそ年齢性別問わず、好きな人と好きなように恋をしなさいってのがうちの方針で」

「あんたン家はどうかしらないけど、アタシは一般常識のもとに生きてんの」

「えー、恋愛すんのは自由じゃん。俺はヒロのこと好きだもん」


 核心を言葉にすると、ヒロは一瞬黙った。俺の真意を伺うように、慎重に俺の表情を読み取ろうとしていた。


「ねえ、それ本気で言ってんの?」

「本気だよ。俺、ヒロのこと抱けるよ?」


 髪をいじっていた手で頭をぐっと抱き寄せるように力を込めると、さすがに抵抗してその手をほどかれた。拒絶というほどでもないやんわりとした払いのけ方は、そんなに嫌ではないからなのか、それとも普段から物腰柔らかなヒロの当たり前の所作なのか。


「抱かれないわよ!」

「んー、じゃあ俺が抱かれる方でもいいよ?そこんとここだわりないし」

「そういう問題でもないわよ!」

「わっかんないなあ。ヒロは俺のこと好きなの?嫌いなの?」

「わっかんないのはあんたの頭よ。っていうか、問題解きなさいよ。アタシたちは今お勉強してるの。わかってる?」


 はぐらかされた。思いっきり答えを濁された。

 だけど、もしかしてこの恋は報われるんじゃないかなという予感がする。


「だってわかんないもん」

「そんなカワイコぶったってカワイクないわよ、バカ」


 だって、ヒロの顔が妙に赤いから。

 満更でもないって感じなのかなと、単純な俺はそう思ってしまう。


(ダメかな。俺、間違ってるかな)


 答えは今聞かなくてもいい。この先、じっくりと恋の駆け引きを楽しもう。


 宿題は一向に終わりそうもないけれど、ヒロが隣にいてくれるのなら何時間だってこうしていられる。俺がこんなに長時間机に座っていられるなんて、奇跡みたいなものなんだと、ヒロは分かっているのだろうか。


「だからね、アタシじゃなくてプリント見て。式はこれで大丈夫だからちゃんと計算してね」

「計算機使っていい?」

「ダーメ。まず九九から覚え直しましょうか」


 すっかりもとの顔色に戻ったヒロは、お返しとばかりに俺をいびり倒す。

 日々楽しいから今はこれでいい。相変わらず勉強はさっぱり分からないけれど。


「ヒロ、俺、頭がパンクする…」

「容量ちっさいわね」


 状況だけを見れば振り出しに戻っているけれど、俺の言葉はヒロの心の中に一石投じることができただろうか。

 少しでも、ヒロの心が変わるといい。

 俺に恋してくれたらいい。





 ねえ、ヒロも楽しいと思ってくれているから隣にいてくれているのかな。

 キョーちゃんが好きよといつかその口で告げてくれるかな。




<終>

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