第28話 《他心通》──自分の心

 ルナは話を聞くのに案内された部屋でソファに倒れていた。

「ルナ! 大丈夫か!?」

 ルナは顔を真っ赤にしてうなされている。 息も荒くて相当苦しそうだ。 <心眼>で視るとかなりの高熱を出してるのが分かった。

 そしてその原因は──

「これは──」

『うん……《道》が不完全だったから……』

 俺はよく知ってる。 こうはならなかったけど経験していることだ。

「ねぇ!? ルナちゃんどうしたの!?」

 一緒に連れてきた殿村が珍しく取り乱している。 クレアちゃんも心配そうだ。

 心配そうな殿村を俺はまじまじと視る。

「お前は大丈夫だったみたいだな。」

 殿村は適合・・してる。 問題はない……だけどまた面白い──と、それよりルナだ。

「……何のことよ?」

「話は後だ。 今はルナの方を……」

 ルナの中を視ると拒絶反応が起きているのが分かる。 原因は《狭間》を抜ける時に浴びたエネルギーだ。

 通常は肉体の能力を高めてくれるが中にはこうして拒絶反応を起こすやつもいる。──今のルナのようにだ。

 このエネルギーをルナから抜き取ってやればいいだけの話ではある。 問題はこれが俺でも把握するのが難しい《狭間》に関するものだということだ。

 今の俺の<真理眼>でさえこのエネルギーの性質が分からない。

『エネルギーを抜くことはできるな。』

『うん……でもこの世界にふれたエネルギーがどうなってどんなえーきょーがでるかはわからないかな……』

『それを避けるためには……一つしか手はないか。』

『でもきけんだよ! なにがおこるかわかんないんだよ!? こいつの中にいちどはいってるんだからなおさら──!』

『でもやるしかないしできるのは俺だけだろ……』

 そう……このまま放っておけばルナがどうなるか分からない。 最悪は死ぬことだってあり得る。──可能性は低くない。

 そしてその可能性は俺にもあり得ることだ。

 まさかね……『六神通』が問題なく使える状況で怖いなんて感じるとは思わなかったよ。 力があるだけで勇敢でもなんでもない小さな人間なんだって思い知らされる。

 でも俺の責任だ──やるしかない。

「ルナ……聞こえるか?」

 俺の呼び掛けにルナがうっすらと目を開ける。

「ユーダイ様……私……」

「しゃべらなくていい。 今から楽にしてやるから。──ごめんな。」

「……なぜ謝るので……むぐっ!?」

 ルナを黙らせように俺はルナの唇に自分のそれを重ねる。

 驚いたルナが弱々しく抵抗するけど逃がすわけにはいかない。 エネルギーが外に漏れないよう、隙間ができないようルナの動きを読んで唇をぴったり重ね合わせて逃がさないようにする。

 器から器へ、隙間を作らずにエネルギーを移し替える──これが唯一の方法だった。

 少しずつエネルギーを俺へと移していくとルナの抵抗が弱まり、隙間を作らないようにしていることに気付いたのか抵抗をやめて協力するように首に腕を巻き付けてくる。

 俺はそのままルナの中からエネルギーを吸い上げていく。 慎重に時間をかけて──殿村とクレアちゃんが呆気に取られて見てるけど構わない。

 5分ほどかけてようやくルナの中からエネルギーを全て吸い尽くすと、俺はゆっくり唇を離す。

「どうだ?」

 ルナを見ると頬はまだ赤いがつらそうな様子は消えていた。

 ゆっくりと目を開けると目を潤ませて俺を見つめ、

「ユーダイ様……その……すごかったです……」

 ……すごかった? まだ熱にうなされて……あ!

「いや、違う違う! キスの感想じゃなくて体調のこと!」

「すごかったわよねぇ。」

「ご主人様……すごかったです。」

 おい、外野まで余計なこと言うな! ルナもなんか俺を見る目が……勘違いしてる娘を余計に勘違いをさせちゃったな、これ。

「んっ……まだだるいですけどつらかったのは収まりました。 ユーダイ様……いったい何があったんですか?」

「ああ、ルナは──ぐっ!?」

 まずい──きた! 全身の血管が膨れ上がるような感覚とともに内臓まで絞り上げられるような激痛が──

 俺は床に倒れのたうち回る。 ヤバい──<真理眼>で自分の体に働きかけることもできない。 痛みを和らげることも回復力を増幅することもできないままただただのたうち回る。

「ユーダイ様っ!?」

「ちょっ、雄大!?」

「ご主人様!?」

 三人の呼び掛けもただ聞こえるだけ──意味をなすものとして理解することもできない。

 自分の体の中で何かが暴れ引きちぎられるような痛みが襲ってくる。 本気でヤバいかも……

 周りで誰かが騒いでいる。 何を騒いでいるのか……意識も痛みに塗りつぶされて朦朧としてきた。

 胃からこみ上げる感触を覚えるとともに、俺は大量の血を吐き出す──自分の中から大事な何かが抜け出るような感覚に襲われながらそのまま意識を失った。

 誰かが叫んでいたような……そんな気がする。 だけどそれさえもすぐに消え去った。


 深い泥沼に沈んでいるような──不快なような……心地いいような不思議な感覚──

 ずっとこのままでいたいような早く抜け出したいような──

 曖昧に感じるだけ……何も考えられない……自分が何か意識さえ……

 どれだけこうしているのか……こうしてる? どうしてるんだろう? 

 何も分からない……沈んでいるのか……浮かんでいるのか……沈んで行くのか……浮かんで行くのか……

 微生物のように漂うだけ……

『………………………………』

 無音の世界に微かな音……ほんのわずかな刺激に散漫だった意識が向けられる。

『…………マ…………』

 また聞こえた──違う。 やっと気付けた、ずっと呼び続けていた声。

『……マ…………マ……ター』

 必死な声……曖昧だった世界に霧散しそうだった意識が確かな刺激に集中していく。

『……マス……ー……マスター…………マスター!!』

 泣きそうな、必死な声──よく知ってる……

 意識がはっきりしてくる……ああ……行かないとな。

 そう思うと俺の意識は泥沼からゆっくりと浮かび上がっていく。


 目を開けると薄汚れた天井が見えた──ここは……どこだ?

 ぼうっとした意識のまま、自分の記憶を探る。

 俺は……確か……

「マスター!!」

 いきなり視界にどアップで見知らぬ少女が飛び込んできた。 12、3才くらいか、将来楽しみな可愛らしい顔立ちだけど涙と鼻水で顔をグシャグシャにしてちゃ台無しだ。

「マスター! 目が覚めて……うぐっ……よかっ……うぇぇぇぇぇん!」

 何をそんなに泣いてるんだ?──と言うか誰だ、この娘?

「御主人様、お目覚めですか!?」

 魅惑的な声に横を向くとミディアが真横から俺の顔を覗き込んでくる。

「ミディアか……何でお前が……」

 聞きながら俺は徐々に思い出してきた。 そうだ──俺はルナを助けようとして……

「血を吐いて倒れたんだったな……」

「はい……丸3日間、昏睡状態でした。」

 体がダルくてたまらない。 体に受けたダメージと血が足りてないのが原因だな。

「ユーダイ様!!」

 ああ、ルナもいたのか。 泣きそうな顔で俺を見ると大粒の涙を溢れさせて抱き付いてくる。

「ユーダイ様っ……お目覚めになって……よかったです……私なんかのために……ごめんなさい……ごめんなさいっ……」

 首にしがみつきながら泣いて謝るルナ。 これ…相当ヤバかったってことかな、俺?

「別に謝らなくていいから……泣くなって。 ちゃんと生きてるんだから。」

 俺はルナの背中をさすって落ち着かせながらしばらくそのままにさせておく。

「でも……私のせいでユーダイ様がこんな……」

「別にルナのせいじゃない。 俺の力が足りなかっただけだ。」

 実際、《漏尽通ろじんつう》が使えれば問題なく対処できたはずだ。 自分の力を十分に使えない俺が悪い。

「でも……でも……」

「いいから。 泣かれる方がどうしていいか分からなくて困るよ。」

「……はい……本当に……ごめんなさい……」

「ご主人様っ!!」

 突然の声に見るとドアを開けてクレアちゃんと殿村が部屋に入ってきたところだった。

「ご主人様! お目覚めになってよかったです! 私……とても心配して……」

 クレアちゃんも俺のところに駆け寄ると泣きはらして真っ赤になった目からさらに涙を溢れさせる。

「こんなに女の子を泣かせちゃって……あんたも悪い男ねぇ。」

 殿村はいつものようにニヤニヤしながら軽口を叩いてくる。 だけど目元は腫れていて陰で泣いていたんだろうなとは想像がつく。

 まったく……ずいぶん心配かけちゃったな。

「心配かけてすまなかった。 だけどもう大丈夫だ。」

 何はともあれ生きてはいた。 だったら自分でどうとでもできる。

 <心眼>で体のダメージを確認──うげっ! 内臓とかこれヤバいんだけど……《越境者》でなければ軽く死んでるよ。

 慌てて回復力を高めて血液の生産速度を上げる。 すぐに体のダルさも消えて意識もはっきり──何だ、この感触?

 やたらと柔らかく気持ちのいい感触にその元を見ると、布団の中で全裸の俺に全裸のミディアが密着してる状態だった。

「ちょっ──! これ、どういう──」

「御主人様に私から精を送っていたのです。」

 興奮したりしてる様子もなく、真面目な顔でミディアが答える。

「御主人様のご命令通り、城に戻り配下の娘たちに指示を出してる最中にすごく嫌な感覚に襲われ……最初のご命令を果たさない内に御主人様の元へ向かうのは御主人様に背くことと思いながらもたまらず駆けつけたのです。

 そうしたら御主人様が血を吐き倒れ……ひどく衰弱されていたのですがどうすることもできず、せめて衰弱を食い止めるためにこうして肌を合わせて精を送り続けていたのです。」

 なるほど──こいつに助けられたのか。

 しかし嫌な感覚ねぇ。 こいつと結んだ《絆》にはそんな設定はつけてないんだけど……女の勘だとしたら恐ろしいな。

「お前に助けられたか──ありがとうな、ミディア。」

 礼を言いながら頭を撫でてやるとミディアはうっとりしながら俺の胸元に顔を埋め擦り付けてくる。

「御主人様がお元気になられてよかったです……とっても……」

「キャッ──!?」

 いきなりルナが悲鳴を上げ俺から体を離す。

 一体何が──

「御主人様……こちらもすっかり元気になられて──」

 体が回復したのとミディアの肌の感触に愚息・・がすっかり元気になっていた──俺に抱きついてたルナに完全に当たってたね、うん──って落ち着いてる場合か!

「その……ごめん! これは生理現象で変なことを考えてたわけじゃ──」

 全裸の女とベッドの中で自分も全裸な状況でこのセリフ──これほど説得力のない言葉もないな……

 だけどルナは怒ることはなく、顔を赤らめてうつむき、

「あの……大丈夫です…………ユーダイ様のですから……」

 これ……勘違いが深まってるな。 他に方法なかったし仕方なかったけど──

「んおっ──!?」

 いきなりの感触に見るとミディアの手が布団の中でモゾモゾと……ってこら!

「ミディア! お前、何を勝手に──」

「御主人様がちゃんと回復されたのか確認を……まぁっ……」

 人の愚息をつかんでまぁって何だ?

「御主人様の……想像以上にたくましくて……はぁっ…固さも大きさも……んっ……このようなモノで可愛がっていただけるなんて……あぁっ……!」

 人のをしごきながら悶えるな。 俺が声出そうだろ。

 ミディアの手をつかんで離させるとミディアは残念そう……と言うよりは切なげな表情で、

「こんなオアズケを食らわせるなんて……ますます疼いてしまいます……御主人様の意地悪……はぁっ……想像だけで軽く達してしまいましたのに……」

 知るか! 勝手に盛り上がるな!

「ちょっとあんた! マスターのめーれーもまだなのにかってなことするんじゃないの!」

「ちょっ…ワタシの邪魔を──」

 突然俺に飛び乗ってきた少女がミディアの頭を押して俺から引き剥がす。 おかげで胸が思い切り見えて……愚息の元気がさらに増した。

 驚いたことにパワーアップしてこの世界で最強になったミディアも彼女の力に抗えないようで俺に抱きつこうとしてできずにいる。

「なあ、この子は一体……」

 見覚えはない……でもしゃべり方には覚えがあって…マスター?

「その……私たちにもよくは……ユーダイ様が倒れてしばらくしたらいきなり光とともに現れたのです。」

「あんたのことをマスターって呼んでずっとくっついてたのよ。 離れようとしないし何も教えてくれないし……あたしたちが聞きたいくらいよ。」

 なるほど──どうしてこうなったかは分からないけど分かった。 念のために心の中で呼びかけて確信も得る。

「お前……ジェムだな?」

 少女はパァッと顔を輝かせると俺の首に抱きつく。

「そーだよ! マスターにこんなふーにさわれるよーになるなんておもわなかった! すっごいしあわせ!!」

 子犬みたいにグリグリと頭を擦り付けてくる白髪を両脇で結んだ少女──俺の作った仮想人格に過ぎないはずのジェムだった。

 どうしてこうなったかはよく分からない。 だけど分かることが一つある。

 ジェムの体は俺がルナから吸い取ったエネルギーを核にして高密度に圧縮された魔力で作られている。 最高位の精霊や悪魔の顕現と同じような感じだ。

 《狭間》のエネルギーがジェムに反応したのか、瀕死の俺が<真理眼>で無意識に対応したのかは分からない。 だけどこうした形でエネルギーが外に出たおかげで俺は助かったわけだ。

 でも助かったのはそれだけが理由じゃないな。

「ジェム──俺をずっと呼んでくれてたのはお前だな?」

 意識を失っている間、気付かなかったけどずっと呼び続けていた声──あれがジェムのもので、俺はそれに引き留められていたんだろう。

「うん! マスター……たくさん血をはいて……でもこの世界じゃどーにもできなくて……マスターのいしきがどっかにいかないよーがんばったの!」

「そうか。 おかげで助かったよ。 ありがとうな、ジェム。」

 俺が礼を言うとジェムは満開の笑みを浮かべる。

「とーぜんだよ! アタシはマスターのかわいくてたよれるあいぼーなんだから!」

 胸を張って言うジェムだが何かを思い出したように不意に顔を曇らせる。

「あ──でもごめんなさい……マスターの権能ちから……持ったままでてきちゃったの……」

 権能? 言われて俺は確認する。

 ジェムに預けていた3つの権能が俺の中から消えていた。 戻そうとするけど戻せない。 ジェムがこんな形で切り離されたことが原因だろう。

 まあ情報の受け取りに困難な部分ができたけど大した問題でもない。

 俺は落ち込むジェムの頭を撫でてやる。

「お前のせいじゃないし気にするな。 ジェムのことをもっと頼りにするだけだからさ。 よろしく頼むぞ。」

「うん……でもそれだけじゃないの……」

 俺に頼りにされれば元気になるかと思ったのにジェムは浮かない顔のまま──それだけじゃない?

 俺は<心眼>でジェムを確認する。 <神風><天津風><千里眼>はジェムの中に……よく見ると<集智心>もあるけどこれはジェムの核になる権能だしジェムがいれば必要は……ちょっと待て。

「ジェム──それ・・は……」

 ジェムの中にはもう一つの権能があった。 それは俺が最初の召喚の時に最後に身に付けてすぐに失ったはずの、本当の意味での3番目・・・の『六神通』で──

「マスターの中に残ってたの……マスターが捨てようとした《他心通》……」


 あの時の記憶がフラッシュバックする


 信じ合っていたあいつ・・・

 最良の友だったあいつ・・・

 最愛の女だったあいつ・・・


 どうしてと、

 知りたいと、

 心から願った俺に目覚めた《他心通》が見せたもの

──おぞましさの欠片もないからこそ何よりもおぞましかった

──理解できなかった

──こんなものは二度と見たくない


 想い願いが目覚めた《他心通》を消した

 俺の中から消え去ったと思っていた

 使えればと思うことは何度もあった

 あんな想いをして拒んだ力を欲した

 あんな想いをしないためにと欲した


 でも使えなかった


 だからもう消えたとばかり思っていた

 消えたとばかり思っていたのに違った

 見ないよう目を背けていただけだった


 欲したのも使えないことを確認するため

 俺の中から消えたのだと再確認するため

 間違っても使わないよう鍵をかけるため


 そのためだったんだ


 俺は思いたかったんだ

 あいつだけが特別異常なんじゃない

 王族はみんなそうなんだと

 だからそうでない王族もいることを知らずにいるために

 目を背け続けるために

 《他心通》を拒み続けた

 王族を拒み続けた

 何でも知ってしまう

 何でも見えてしまう

 何でも聞こえてしまう

 そんな自分の力の一部を拒み続けた


 頼む

 あんなものを見せないでくれ

 頼む

 違うものを見せないでくれ

 頼むから──見せないでくれ

 

 ──俺はまだあいつを──


「マスター!」

 ジェムの叫びに意識が戻る。

 おびただしい冷や汗が体を濡らしていた。 だけど感じる冷たさはそのせいじゃない。

「ユーダイ様! 大丈夫ですか!?」

 見るとみんなが俺を心配そうに囲んでいた。

 ひきつけを起こしたように苦しかった呼吸をゆっくり深呼吸して落ち着かせる。

「だい……じょうぶだ。」

 ルナに何とか答えると俺はジェムを見る。

「ジェム……それは俺にはいらない力だ。 そしてお前にも使ってほしくない。」

 ジェムが真剣な顔で頷く。

 思い出してしまった。 《他心通》で見たもの──

 そうだ……《他心通こんな力》はいらない。

「ユーダイ様……すごい汗です。 こちらを──」

「ああ、ありが──」

 ルナが差し出すタオルを受け取ろうと手を伸ばし──


──『ユーダイはがんばるな。 ほら、これを使え。』


──パシィッ!

 ルナが差し出したタオルが宙を飛んでいた。 場の空気が凍り付いたように固まり、ルナは呆然と自分の手を見ている。 

 ……俺は今、何をした?

 いや、そんなことは分かってる──分かりきってる。

 手には当たってない。 でもよほどショックだったのだろう。 ルナは呆然とタオルをつかんでいた手を眺める。

 何で……今、ルナとあいつがかぶって見えた。 全然似てないのに──

「ご、ごめん、ルナ! その──」

「あの……私……何かユーダイ様のお気に障ることを──」

 あまりに衝撃が大きかったのだろう。 ルナの目尻に涙が浮かぶ。

「いや、違う違う! ルナが悪いんじゃなくて──」

 言い訳をしようとして俺は口ごもる。 あのことは──言えない。 言いたくない。

 思い出したくもないのに今、まざまざと追体験したばかりだ。

「ルナが悪いんじゃなくて……ちょっと…………昔の嫌なことを思い出しちゃって……ごめん。」

 今の俺に言える、これが精一杯。

「ひょっとして……先ほどのはその……?」

 昔──ただこの一語ですら、口にするだけでも今は苦しい。 あのことにしか繋がらない。

 俺は黙って頷く。 頼む──これ以上は聞かないでくれ。

 祈りにも近い想いで黙ってうつ向いていると、不意に頭を包む暖かい感触──

「申し訳ありませんでした……知らぬこととは言えつらいことを思い出させてしまって。」

 俺の頭を抱き締めながらルナが柔らかい手で俺の頭をなで回す。 やめろよ……子供じゃないんだからさ。

 軽口のように文句を言ってさっきのことも終わりにしちゃおう──そう思ったけどなぜか俺の喉は引きつったように上手く声が出せない。

「もうお聞きしません。 先ほどのことも……ユーダイ様は気になさらなくていいんです。 ですからどうか──」

 もういいから……そんな泣きそうな声で無理するなよ。 聞かないでくれるならすぐにいつもの俺に──

「どうか泣かないでください。」

 ……何を言ってるんだ? 泣いてるのはルナの方だろう? 俺は別に泣くようなことなんて──違った。 ルナに言われて俺は初めて気付いた。

 自分の目から涙が溢れていることに。


 子供じゃあるまいし──

 人前でみっともない──

 同情されたいのか?──

 男のくせに恥ずかしいやつ──


 自分を罵っても涙は止まってくれなかった。 むしろ堰を切ったように──押さえきれない感情が溢れてくる。

「うっ……ぐっ……うぅっ……」

 認識したら──自覚したらもう止まりようがなかった。

 いくら押さえようとしても次から次へと涙が流れる。

 俺はそのまま、ルナに抱き付いて声を上げて泣いた。 ずっと──あの時以来溜まっていたものを流し尽くすように。

 ルナも──周りのみんなも──誰も何も言わず、喉から溢れる俺の嗚咽だけが部屋に響いていた。

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