第5話 夢の中の黒い男
もしも眠っている間に栓をされてしまったらどうなるのだろう、と眠る前に考える。
小瓶に抱きしめられているときのわたしは、守られているけれど、同時に無防備だ。小瓶の口をふさがれてしまったら、わたしは息ができなくなって、そのうち死ぬかもしれない。死ぬというのはどういうことなのだろう、と考える。死んだら、どうなるのだろう。一粒の金平糖のような、お星さまになれるのだろうか。わたしも、母みたいに。
わたしが物心つくかつかないかの頃に亡くなってしまった母のことを、わたしはほとんど覚えていない。記憶の中の母の顔は、わたしがだいぶ大きくなってから見せられた写真の表情で上書きされてしまっている。だから、実際にわたしに向けられていた母の顔がどのようなものだったのかは、わからない。わたしが生まれるより昔からこの家にいるひとたちは、お美しい方でしたよ、ショウコさまによく似ていらっしゃいましたよ、と言うけれど。
ほとんど記憶に残っていない母のことで唯一覚えているのが、金平糖だった。
幼いわたしに母が金平糖の入った硝子の小瓶を手渡してくれた場面だけは、なぜかいまでもはっきりと頭の中に映像を浮かべることができる。母や幼いわたしの姿には、ぼんやりとした靄がかかっていて、どのような表情をしていたのか、どのような服装をしていたのかなどは、記憶から綺麗に抜け落ちてしまっていたけれど。
母がくれた小瓶の中には、たった一粒、金平糖が閉じ込められていた。
小瓶に結ばれていた可愛らしい桃色のリボンと、繊細な宝石のように美しい星型の粒は、一目で幼いわたしを魅了した。
「かあさま、これ、わたしの宝物にする」
幼い娘の言葉に、母は何と返したのだっただろう。
母がお星さまになったのは、それからすぐのことだったような気もするし、もっと後のことだったような気もする。わたしの手元には金平糖の小瓶が残り、それは着物や嫁入り道具などの形式的なものよりも、ずっと母の形見に相応しく思えた。次第にわたしは本物の宝石の輝きや、髪に結ぶリボンの種類を知るようになり、小瓶は幼い頃の思い出として奥の方にしまい込まれることになった。けれど、こうして再びわたしの元へ帰ってきた。わたしは既に、小瓶なしではいられなくなってしまっている。家のひとたちが何となだめすかそうと、肌身離さず宝物の小瓶を持ち歩くことをやめなかった、あの頃の幼いわたしのように。
まどろみの中で記憶の世界を彷徨っていると、ふいに寂しさが押し寄せてくることがある。わたしは腕を曲げ、小瓶の外側をそっと撫でた。小瓶に抱きしめられているとき、わたしは自分のことを抱きしめてあげることができない。わたしは小瓶の冷たいやさしさを愛していたし、もう触れることの叶わない母を求めて泣くような子どもでもないけれど、ときどき無性にぬくもりが恋しくなった。
トウコさんの、お日様の匂いのする手のひらを思い出す。あの手で、わたしの頬や肩や背中に触れてほしいと思う。わたしの身体は、トウコさんの手が触れたところからぽかぽかとあたたまって、実体のない寂しさなんて上から塗りつぶされてしまえるだろう。
十五のわたしは、小瓶の装甲に守られながら眠りに落ちた。
*
夢の中で、わたしは泣いていた。
小瓶が粉々に砕けてしまって泣いていた。もう小瓶と一緒になることは叶わないのだと、自分の身体の一部が引き裂かれてしまったような痛みを感じて泣いていた。地面にはいつくばり、必死で小瓶の欠片をかき集めようとするわたしのそばには、黒いローブに身を包んだ長身の男が立っていた。右手に大きな鎌のようなものを持ったその男は、何も口にしないまま、色のない目でわたしを静かに見下ろしていた。
またこの夢だ、と冷静なもうひとりのわたしが思う。
小瓶とひとつになることを覚えた頃から、頻繁に現れるようになった夢。
黒い男の横顔は、どこか旦那さまに似ていた。
*
夢を見た日の翌朝は、決まって雨に降られたような汗をかいていた。
嫌な肌寒さを感じて目を覚ます。わたしの身体は眠る前と同じようにきちんと小瓶におさまっていたし、黒い男が枕元に立っているようなこともなかった。わたしは小瓶から離れると、着崩れた寝間着の胸元をかきあわせながら部屋を出て、トウコさんを呼んだ。
気分の悪い寝間着と肌着を取り換えた後、汲まれたばかりの清潔な水で小瓶を丁寧に洗った。銀のボウルに張られた水はとても冷たく、浸かっている指先から凍りはじめているみたいに感覚がなくなっていった。小瓶を清め終えると、わたしはトウコさんが水や着替えと一緒に持ってきてくれたタオルで優しく小瓶を包み込んだ。あとは日光の当たる窓辺に置いておけば、お昼過ぎには乾くだろう。
日の出前なので、明りをつけていない部屋の中は薄暗く肌寒かった。トウコさんは、大半のひとたちはまだ眠っている時間だというのに、既にきちんと身支度を整えてあった。わたしが何かの用事で呼びつけるとき、それがたとえ深夜であっても早朝であっても、トウコさんが寝乱れた姿で現れたことは一度もなかった。
「またあの夢を見たわ」
化粧台の前に座ってトウコさんに髪を梳いてもらいながら、鏡に向かって話しかける。
「鎌を持った、黒い男の夢ですか」
「そうよ」
わたしの髪はすこし赤茶色がかっていて、ふわふわとまとまりがない。日本髪を結ってもいまいち美しく決まらない、子猫の毛並のような髪。扱いにくい猫っ毛を、ショウコさんは椿油を染み込ませた櫛で丁寧に梳いてから、くるりと手早くまとめてしまう。
「怖い夢は忘れておしまいになるのがいちばんですわ、ショウコさま」
「こう頻繁に見るとなると、そうもいかないわ。記憶に住み着いてしまっているもの」
「夢違えでもなさいますか」
「あら、あんなの時代遅れだわ」
トウコさんも真面目に提案したのではなかったようで、わたしの言葉に、ころころと笑い声をたてた。わたしも一緒になって笑う。家のひとたちを起こさないように、なるべく声をひそめて。
「あの夢は、わたしに鎌が振り下ろされて終わると思うの。きっとわたしは、バラバラにされてしまうのよ」
そしてきっとそうなるであろうタイミングを、わたしは既に知っているような気がした。
「だからね、わたしはその前に逃げてしまおうと思うの」
わたしは鏡越しに片目をつむってみせた。トウコさんは夢の話には言及せず、ただ穏やかな表情を浮かべたまま、わたしの髪に触れていた。
髪を整え終わった後で、トウコさんは言った。
「もうすぐ十六になられますね、ショウコさま」
「ええ、きっかり半月後にね」
「お誕生日には、たくさんの方をお招きしてパーティを開いてくださると旦那さまがおっしゃっていましたよ。何かご入り用のものがありましたら、おっしゃってくださいね」
一時考えるふりをして、わたしは答えた。
「誕生日の前日に、作りたいものがあるの。そのために材料がいるのだけれど――」
わたしは振り返り、櫛を持ったままのショウコさんに短く耳打ちをした。
ショウコさんは怪訝そうな表情をしていたけれど、わたしはにっこりと微笑み返すだけで、ほかにはもう何も言わなかった。
十五から十六になること。
ひとつ歳を重ねる。本来はただ、それだけのこと。
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