第4話 トウコさんのこと

 廊下ではトウコさんが待っていた。

 わたしは目で合図をしてから、薄暗く長い廊下を無言で歩き出した。わたしの歩調に合わせるようにして、トウコさんがついてくる。

 絨毯の床が終わると、わたしはたっぷり息を吐いた。境界を越えるときは、つい息をとめてしまう。慣れ親しんだ床を踏むふたりぶんの足音が、月夜に鈍く響いていた。


 自室に着くと、トウコさんに廊下で待っているように告げて、ひとりで部屋の中に入った。棚の鍵付きの引き出しからいつものものを取り出し、後ろ手に持って再び廊下に出る。近くで誰も見ていないことを確認してから、手に持ったそれをショウコさんの手の中にすばやく滑り込ませた。この瞬間は、何度くりかえしても、毎回胸が高鳴る。

「明日のおめざめね、いつもよりちょっとだけ、奮発したのよ」

 耳元に口を寄せて囁くと、トウコさんは「まあ」と、慎みを忘れない程度に声を明るくした。

 こんなふうに、ふとしたときにトウコさんの少女らしい一面が垣間見られると、嬉しくなってしまう。物腰が落ち着いているのでだいぶ大人びて見えるけれど、実際の年齢はわたしとそれほど変わらないはずだった。

「ありがとうございます。明日の朝が楽しみになりましたわ」

「あら、明日だけなの。いつもは楽しみにしてくれていなかったの」

「いいえ。ショウコさまのお心遣いのおかげで、毎朝起きるのが楽しみです」

 わたしがむくれて見せると、トウコさんはすこしいたずらっぽい表情をした。

「ショウコさまは賢くていらっしゃいますから、そのようなこと、あえて聞かずともとうにご存じでしょう」

「ええ、もちろん、わかっているわ」

 わたしはトウコさんの手をとった。そしてそのまま、自分の頬にそっと押しあてる。トウコさんの手は、わたしのちいさく痩せた手とは違い、やわらかで、やさしくあたたかい。

「けれど、わかっていたって、聞きたい言葉もあるの」


 わたしにおめざめをくれるのが旦那さまの役目なら、トウコさんにおめざめをあげるのはわたしの役目だ。

 おはじきに似た可愛い色のドロップ、素朴でやさしい味のするきなこ棒、夜空からこぼれ落ちてしまったお星様みたいな金平糖。

 トウコさんは、わたしが女学校にあがるよりすこし前からこの家にいて、わたしの身の回りの世話をしてくれている。実の兄弟姉妹の類がいないわたしにとって、トウコさんは姉のような存在だった。けれど、お友だち同士のように仲良くしたり、度を越して甘えたりすることは、お互いの立場から許されていない。わたしにできるのは、こっそり毎朝のおめざめを手渡すことと、すこしの時間ぬくもりに触れることくらいだった。

「トウコさんが、ほんとうの姉さまだったらよかったのに」

 実の姉妹だったなら、堂々と手をつなぐことも、同じ部屋に布団を並べて眠ることも、一緒に女学校に通うことだって許されていたかもしれないのに。拗ねたような口調で呟くと、トウコさんは困ったように微笑んで、壊れ物を扱うようにそっとわたしの頬をなでた。

「姉ではなくても、トウコはいつだってショウコさまのおそばにおります」


 その一言を聞くだけで、夜があたたかいものに思えてくるのが不思議だった。

 眠りにつくことに対する恐怖が、波がひくみたいに消えてゆくような気がした。

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