第3話 旦那さまの書斎
小瓶は、わたしの手の中で自由になる。
小瓶とひとつになりたいと願って触れれば、それはわたしの背丈の半分ほどにまで膨張し、わたしのすべてをすっぽり包み込んでしまうように受け入れた。出たいと思えば、それはすぐにわたしを解放し、手のひらに収まる小さな硝子瓶に姿を戻した。 小瓶は、わたしの気持ちをぜんぶわかっているかのようだった。
小瓶とわたしは、一体化することによって、言葉を介さないおしゃべりをした。そうしているとき、わたしは「わたし」であることから解放されて、なにかべつの大きな存在のなかの一部として溶けてゆくような感覚に、しばしば陥った。小瓶は装甲であり、またシェルターのようでもあった。逃げ出したくなることがあれば、小瓶の中に入った。悲しいことに直面したときも、やっぱり小瓶に助けを求めた。耳触りのよい言葉をかけてくれるのでも、あたたかなぬくもりを伝えてくれるのでもない硝子の小瓶は、それでも心地よくわたしを満たしてくれた。
小瓶のことは誰にも話さなかった。小瓶とひとつになるのは、誰かに見られる心配のない自分の部屋でだけと決めていた。ほんとうはいつだって小瓶と一緒になっていたかったし、学校にいるときに小瓶に入りたくてたまらなくなることもあったけれど、なんとか気を紛らわすようにして我慢した。
小瓶とのことは、むやみに知られてはいけないことのような気がしたし、また秘密にすることで、小瓶とわたしの一体感がずっと増すような気もしたからだ。秘密はどれほどささやかなものでも、胸を震わせ、おなかのあたりに甘やかなものを生みだす。小瓶とわたしは、秘密の共犯関係にあった。
「ショウコさま」
襖の向こうから声がかかって、わたしは反射的に身体を固くした。勝手に開けられるようなことはないと知ってはいても、小瓶に入っているときは、どうしても慎重すぎるほど慎重になってしまう。
「なにかしら。いま、着替えているところなの」
「旦那さまがお呼びとのことです」
「わかったわ。すこし待って頂戴」
身支度を整えるために姿見にかかっていた小花柄の布をめくると、鏡にわたしと小瓶の姿が映りこんだ。
わたしは小瓶の中にいるときのわたしがいちばん自然だと思っていたし、そのときのわたしがいちばんすきだった。けれど、小瓶とひとつになっているときの自分の姿を、こんなふうに客観的に眺めるのはあまりすきではなかった。小瓶の外に取り残されたものがわたしの一部であることを、嫌でも思い出すことになるからだ。
わたしの半身を包む硝子瓶から、異物のように生えている四本の肢体。小瓶に収まりきらなかったそれらの存在は、わたしの目には余計なものとして映った。小瓶に受け入れてもらえなかったのにも関わらず、未練がましくそこにあり続けている様子は、ひどく滑稽だ。いっそ切り落としてしまうことができたら、どれほどすっきりするだろう。
わたしの住む家は、すこしへんな造りをしている。
基本的には普通の和風建築で、わたしに与えられているのも畳敷きの部屋だった。けれど長くて細い廊下を奥へ奥へと進んでゆくと、あるところを境にして、唐突に洋館の廊下に変化する。床はさらりとした感触の絨毯になり、天井からは豪奢なシャンデリアがつりさげられ、壁には西洋の絵画が現れる。何の前触れもなく、空気までが違ったものに変化するその居心地の悪さは、ふと気づいたら別の家の廊下に迷い込んでしまっていたというような荒唐無稽な空想に似ていた。ここは、外からはいくら立派に見えても、実態は不恰好なつぎはぎの家。どうしたって隣り合う事のないはずのふたつが、無理やりくっつけられているみたいな、そういう違和感が存在している。
この家の「境目」を越えるとき、わたしはいつも、とてつもなく遠い世界に迷い込んでしまったかのような心細さを感じる。もし数歩後ろにトウコさんが控えていてくれなかったら、自分ひとりでこの道を進まなければならなかったとしたら、きっと足がすくみ途中で動けなくなってしまうだろうと思う。
絵画を数枚眺めた先のつきあたりには、ひとつだけ扉があって、そこが旦那さまの書斎になっていた。
書斎はわたしにとって、いつでも薄暗いという印象の場所だった。それは窓がひとつもないためかもしれないし、わたしがそこを訪ねるのが決まって日が落ちてからだからなのかもしれないし、またべつの理由からかもしれなかった。
書斎での旦那さまはいつも、座り心地のよさそうな大きな背もたれの椅子に腰かけ、壁にぴったりとくっつけるように置かれた机に向かっていた。
わたしに対して口うるさいことはほとんど言わないひとであったけれど、唯一、眠る前におやすみなさいの挨拶をしに来る約束だけは、幼少のころからわたしに守らせている。わたしが書斎を訪れると、そのときばかりは煙草を消し、机に背を向けて、わたしを迎え入れる。
薄暗い書斎は、甘く煙たい煙草の匂いがする。立派な装幀の外国の本がたくさん並ぶ本棚に囲まれた、この家で唯一西洋風の部屋だった。素足で歩くと、一面に敷かれた絨毯の小動物のような毛並にまとわりつかれた。絨毯でも、廊下に敷いてあるものとは、質感もなにもかもが違っていた。深い紅色の絨毯は、実は生きているのではないかとわたしは疑っている。じっと息をひそめて床にぺたりと這いつくばり、自分の上を踏み歩いてゆく足を、ひとつひとつ品定めしているのだ。きっと、この部屋の主のかわりに。
「パパ、わたしよ」
背中に声をかけると、そのひとは椅子ごと身体を回して、わたしに向き合った。煙草の名残がうかがえる口元に、薄い微笑をたたえていた。
「ショウコか」
そして穏やかな声音でわたしの名前を呼んだ。
わたしはそれに返事をして、それからいつものように、その日学校であった些細な出来事や、帰り道で見かけた美しい花のことなどを話しはじめた。
旦那さまは目を細めて、わたしの話に耳を傾ける。けれど、わたしの話はどれも彼の耳にほとんど入っていないのだということを、わたしは知っていた。
学校で学んでいる英語がとても難しいという話も、最近読んだ少女小説の話も、お庭に咲いたツツジの話も、目の前にいるこのひとの興味を引くことはない。ほとんど義務のように続けられているそれらの他愛ない報告を聞くことは、わたしを呼びつけるための表向きの理由でしかなかった。
会話の切れ目が訪れると、旦那さまは話の流れとは関係なく、そうか、と呟いて、そしてわたしの右腕をとった。すこし力をこめたら、わたしの腕の一本や二本、簡単に折ってしまえるだろう大きく無骨な手。その手で、驚くほど繊細にわたしの手足を扱う。
大きな手が、右腕をなでる。手首のすこしくぼんだところから、肩に至るつけ根のところまで。血液の流れを再現するみたいに、微かに肌に透けている血管をなぞってゆく。裏も、表も。くまなく、まんべんなく。左腕も同じように。
「おまえの腕は、ひんやりしているね。それからとてもなめらかだ」
「硝子みたいでしょう」
「ああ――そうかもしれない」
そう言って旦那さまは、寝間着の裾がだらしなく捲れ上がらないよう気を配りながら、わたしの右脚を丁寧になであげた。その手つきは、芸術家が自分の作品の仕上がりを確かめるようなそれに似ていた。
「来月は、おまえの誕生日だったね」
「ええ、そうよ」
「いくつになるのだったかな」
右腕、左腕、右脚、左脚。
毎夜、決して変わることのない順番で、わたしの四本の肢体を確認する。
わたしはその間じっと身体を固くしている。ほんものの、冷たく硬い硝子になったふりをしている。
わたしは、じき十六になる。
セーラー服を着た少女たちの中にいると、誰かのもとへ嫁ぐ日なんて永遠に訪れないかのように感じてしまう。けれど、実際はそうではないのだ。この国では、十六になると女性は婚姻を結ぶことができる。女学校にも、卒業を待たずに去ってゆく生徒が毎年少なからずいる。そういう年齢に、もうすぐ、わたしはなる。
もしも、と思う。もしも、どこかの誰かがわたしに好意を持ってくれたとして。わたしに褒め言葉をくれるとしたら、どれほど陳腐で下品な口説き文句よりも、手足を褒めることだけは絶対にされたくないと思っていた。それはわたしにとって、抜け落ちた髪の毛や切り落とされた爪を褒められるのと同じようなことだからだ。
いまやわたしの身体は、小瓶に受け入れられるためのものだった。なので、そこからはじかれている肢体は、たとえわたしに接続されている部分だとしても、わたしの身体の一部であるとはどうしても思いたくなかった。それらは確かにかつて「わたしだった」かもしれないけれど、いまはもう「わたし」ではないのだった。小瓶がわたしをはじめて受け入れたその瞬間に、わたしの身体から剥がれ落ちてしまったものたち。小瓶から、わたしの一部ではないと烙印を押されてしまったものたち。
けれど旦那さまは、それらを愛している。
わたしの身体のどの部分よりも、愛している。
「――さて、おめざめをあげようか」
いつものように軽い頬へのキスを最後の合図にわたしの左脚を解放すると、机の引き出しから綺麗な模様の描かれた四角い缶を取り出し、わたしの手にちいさな包みを握らせた。それは赤いセロファンにつつまれた外国のキャンディで、セロファンを剥がさなくても、嘘っぽく人工的な甘い匂いが漂ってくるような気がした。
おやすみなさいを言いに来ると、旦那さまは決まってわたしを解放する前に、ちいさなお菓子をひとつくれる。それはニッキや薄荷の飴のときもあれば、ナッツの入ったチョコレートやミルクキャラメルのときもあった。明日の朝目を覚ましたらいちばんに口に放り込みなさい、と旦那さまは言った。そうすると目覚めがよくなるからと。
この家では、起き抜けに口にぽいと入れるちいさなお菓子のことを、「おめざ」ではなく「おめざめ」と呼んでいた。
「ありがとう、パパ。おやすみなさい」
「おやすみ」
旦那さまに背中を向けて書斎を後にするとき、脚のあたりにちりちりとした視線を感じた。絨毯の獣に足をからめとられてしまう前に、はやく小瓶の中に帰りたいと思った。硬く透き通った装甲に、一秒でもはやく抱かれたいと思った。
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