ある教授の悩み
その教授は悩んでいた。しかし結論は出ないまま、今日も講義の時間は始まってしまう。
「今日はトロッコ問題について話そうと思う。トロッコ問題とは、イギリスの哲学者フィリッパ・ルース・フットによって提起された思考実験だ」
そう言いながら講義室全体を見回すが、受講している100人以上の生徒のうち、出席しているものが半数、さらに真面目に話を聞いている者など極僅かしかいない。
「暴走するトロッコが、五人の人間を轢き殺そうとしている。だがレバーを引いて進路を変えれば、一人の犠牲に抑えることができる。この時に、私達はレバーを引くべきかどうかという問題だ」
ほとんどの学生は先生の話を聞いていないようだ。その代わり、隣に座った友人達と小声で語らいあったり、スマホで何かを調べている。少なくとも講義に関係するような内容でないことだけは確かだ。
その光景に苛立った教授は、後ろの方に座っていた一人の学生に向かって指をさして質問をした。
「そこの君。君ならば、このような状況でレバーを引くか、引かないかどっちを選ぶかね」
まさか自分が当てられるとは思っていなかったのだろう。男子生徒は、そもそも質問の意図を理解していない様子だったが、辛うじて二択の問いだったのが幸いだった。
「俺なら、レバーを引きます」
その返答を聞いて、教授は講義を続行する。
「彼の言う通り、レバーを引けば差し引き四人の人間が助かることになる。それは実に合理的な選択だ。だが、何もしなければ助かるはずだった命を、直接的に殺してしまうことになる。ここがトロッコ問題の難しい部分だ」
さきほどの学生は、しばらくの間そわそわしていたが、やがて自分の答えが授業の進行を妨げなかったことを悟ると、再び視線を手元の画面に戻した。
「では、別のケースを考えよう。同じようにトロッコが五人の人間を轢き殺そうとしている。しかし反対側の進路には三人の有望な若者、そうだな今回は医者にでもしておこうか、医者が三人立っている。この時に私達はレバーを引くべきかどうか。答えたい生徒はいるか?」
その質問に教室内が少しざわめくが、だからと言って自主的に手をあげようなどと思う人間は滅多にいない。けれども一番前の座席に座って、せっせっと黒板を写していた女性徒が挙手をしてこう答えた。
「三人の医者を助けるべきです」
「だが若者を取れば、二人分の命が余計に失われてしまうことになる。それともレバーを引かない選択をすることが、君にとって二人の命よりも多いということか?」
「いえ、そうではありません。なぜなら医者を救えば、将来より多くの人間が助かると思ったからです」
教授はその意見を聞いて嬉しそうに頷いた。
「先を見据えた、実に合理的な選択だ。これに反論がある者は手を上げなさい」
もちろん、そう言われて声を上げようと思う者は、もう教室内にはいなかった。静まり返った部屋に、壇上からの声だけが響き渡る。
「ふむ。この講義での総意は有望な三人をえらんだ方がいいという結果になったようだ。だがしかし、実際の社会では、それぞれの人間に価値を定めることなど正しくできるのだろうか。トロッコ問題はこうした道徳的な...」
やがて授業は終わり、彼は自分の研究室に戻って腰を下ろす。そして、デスクの最下段にある鍵のかかった引き出しを開けて、二つの用紙を取り出すと、満足そうに片方の紙をシュレッダーにかけた。
その教授は悩んでいた。誰もが平等に点を取れるような簡単な試験にするべきか、真面目に講義を受けているものだけが解ける公平なテストを出すべきか。
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