第22話

 数日後。

 鈍色にびいろの空の下、軍一行は都城とじょうに凱旋した。

 泥と血で汚れた兵士らは、へとへとになりながらも喜びに満ち溢れた顔で都城に入る。

 反面、民衆は生気の失せた顔で彼らを出迎え、戦いを終えたばかりの彼らをねぎらう様子は皆無だった。




 戦の最中に降った雨は都城にも訪れていた。

 久しぶりの恵みの雨に市井の人々は喜んだ。

 これでもう日照りに怯えないで済む。やっと作物が育つ。家族を食わせてやれる。

 皆の顔に希望が浮かんだ。

 だが、雨はただ命を育むだけのものではない。

 今年の猛暑が原因で、都城の道端には埋葬しきれない死体が大量に転がされていた。そして放置された死体は、何もしなくても腐敗する。

 町中で蠅はたかり、死臭がむせ返り、衛生環境が良いとはとても言えない有様だった。

 その上に雨が降ると、最悪の一語に尽きた。

 水分を吸った死体は醜く膨らみ、肉は形を保てなくなって崩れ落ちる。肉塊は地面にへばりつき、歩ける場所を奪っていた。

 もとより人々は死体と共に過ごす日々に辟易していた。だのに、どこを歩いても死肉を踏み荒らさなければいけなくなったのは、苦痛以外の何物でもなかった。

 こんなときに貴重な人手がいくさに行っていて、いつ戻るか分からない、という状況は更に精神を蝕んだ。

 雨もたった一日しか降らず、作物にとっては雀の涙程の量しかなかった。

 人々の心のやり場は、完全に途絶えていた。




 それゆえ、人々は兵士の帰還を喜んでやれる余裕が残っていなかった。

 義務的に頭を下げて無表情で兵士に道を譲る姿は不気味で、兵士たちの高揚は見る間にしぼんでいった。

 戦に向かうときにはあんなにも激励してくれたのに、何だってこんな、と美琳メイリンもその変貌ぶりに戸惑った。


 美琳がきょろきょろと見回していると、お守りを手渡してくれた女性を見つけた。

 周りの兵に断りを入れると、女性に駆け寄る。

「おばさん!あたし帰ってきたよ?ほら、ちゃんとお守りも持って帰ってきたの」

 美琳は八の字眉で笑みを浮かべて、懐からお守りを取り出す。

 その声に女性はパッと嬉しそうに顔を上げる。が、美琳の姿に絶句する。

 美琳の着物は全身血に染まり、ところどころにが開いている。

 穴、ということは、武器を避けたときに出来た訳ではない。それは武器に貫かれたことの証左であり、重傷を負ったという推論を立てるのは必然だった。


 しかし当の美琳は戦の前と全く同じ姿で目の前にいる。

「め、美琳ちゃん……?何ともないのかい?」

「え?全然大丈夫よ?でもお守りを汚してしまって……ごめんなさい」

 と言った彼女のてのひらには、彼女の着物と同じように真っ赤に染まったお守りがあった。

 女性はそっとお守りを受け取る。

「それは……いいんだよ。戦なんて血塗れになるもんなんだから。でも……」

 よく見れば、美琳の着物は他のどの兵士よりもボロボロだ。きっと誰よりも活躍したのだろう。つまり、それだけ敵兵を殺したはずだ。

 その上で、お守りが汚れたことだけを心配している。


 女性の体に震えが走る。

 戦の前までは、若く、健気で、可愛らしい少女兵だと思っていた。でも……本当にそうなのか?少女は何かを持っているのではないか?

 女性は触れてはいけないものに触れた気がして、まごつきながら美琳にお守りを返した。

「おばさん?どうしたの?」

「いや、何でもない、何でもないよ」

「そう?……そういえば、皆はどうしてこんな……暗い感じなの?もしかして王宮で何か?」

 美琳は目線を鋭くして女性に囁くが、彼女は静かに首を振る。

「王宮は大丈夫さ……ただ、皆疲れてんだよ」

 その言葉に美琳はホッと息を吐く。

「何もないなら良かった」

 それを聞いた女性はカッと目を見開く。

「よかないさ!あたしらが大変なときに何もしてくれないなんて、王は一体何考えてッ……と、いけない。美琳ちゃんにこんなこと言ってもしょうがないよね」

 女性の非難の言葉に「……うん、そうだね」と美琳は生返事をした。そしてどこを遠くを見るようにして考え込み始めた。ぐっと大人びた、真剣な表情で。




美琳メイリン?何やってんだ?」

「あ……護衛長」

 なかなか行軍に戻らない美琳を呼び戻しに来たのは勇豪ヨンハオだった。

 見るからに貴族である勇豪の登場に、女性は慌てて平伏する。

「前にお守りを作ってもらったので、無事に帰ってきたことを話してました」

「お守り?お前にゃ必要ねぇだろ」

「まぁ……そこはそれでしょ。こういうのは『気持ち』ってのが大事なんでしょう?」

 そう言ってお守りを見つめた美琳の顔は、いつもよりもどこか幼く見えた。

「……お前にそんな殊勝な心があったとはな」

「はあ?それくらいは分かるんだけど?」

 勇豪が小馬鹿にして言ったので、美琳も思わず噛みついた。

 その姿には先程の真剣な面持ちも、幼げな表情もなかった。いつもと同じ小生意気な美琳の様子に、勇豪はフッと吹き出す。

「悪かった悪かった。ほら、礼が言えたんならもう気が済んだだろ?さっさと隊列に戻れ。兵舎に戻ってもまだやることあるんだからな」

「そうだった……了解です」


 勇豪がすたすたと隊列に戻るのを、美琳も追いかけようとした。が、ふと忘れていたことに気づく。

 美琳は後ろに振り向き、困ったような、照れ臭いような笑顔で「おばさん!」と女性に声をかける。

 平伏し続けていた彼女は、面を上げて少女の言葉を待つ。

「お守りありがとう!あれがあったから戦場でも心強かったんだよ!」

 つるりとした丸い頬が薄紅に染まる。どこまでも清らかな輝きを放ちながら。

 女性は少女に笑いかけられた途端、先程までのもやもやとした気持ちがどことなく晴れた感覚がした。

 おそらく戦場で大量の血糊に塗れただろう、その頬が。無垢な笑顔を浮かべて戻ってきた。

 もしかしたらもう二度と会えないかもしれないと思っていた、その子が。五体満足で帰って来た。

 それだけで、充分ではないのか?


 女性も顔を綻ばせる。

「美琳ちゃん、また来てね」

「うん!じゃあまたね!」

 美琳は駆け足で隊列に戻っていく。

 女性は、隊列に戻った少女が王宮に姿を消すまで、その後ろ姿を見送り続けた。

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