第21話

 美琳メイリンは雨に濡れた顔を拭うと、お守りを懐に仕舞った。

 その頃になると雑兵たちの情勢は大きく傾いていた。

 少女の蹂躙によって敵兵の戦意は大幅に下がり、味方の兵士たちは奮起して実力以上の力を発揮していた。

 不死身の少女の出現はるかられるかの死地においては何よりも脅威だった。逆に味方にいればこれ程心強い者もいない。

 彼らの変心も当然の帰結だった。

 これで自分の存在実力を知らしめることは出来た、と美琳は感じた。

 だが文生ウェンシェンの隣に立つにはまだ足りない。それもまた間違いないと確信した。

 ならば、といくさの中心地に目を向ける。




 そこでは馬車に乗った貴族たちが兵士に号令を出していた。

 雨で地面がぬかるんでいるせいで、両国の馬車は不安定な動きをしている。されど彼らは兵士を鼓舞するためになんとか駆けまわっていた。

 中でも敵国の武将は、兵をより奮い立たせるために雄叫びを上げていた。

「お主ら!もっと鍛錬の成果を見せぬか!そんな風に育てたつもりはないぞ!」

 声の主はがたいのいい、四十頃の髭面の男である。

 その男に子佑ジヨウが声をかける。

永祥ヨンシャン殿!貴殿の兵も衰えたものですな!そろそろ後進に道を譲られては如何いかがかな?」

 すると永祥と呼ばれた男が笑いながら返す。

「はっはっは!儂も貴公を見習わんといかんかな?ぽっと出の庶子に王位を明け渡した、貴公のようにの!」

「くッう……!そんなこと言っていられるのも今の内だぁ!」

 子佑は持っていた弓を引き絞る。だがそれよりも早く永祥の矢が放たれた。


 カァン、と鈍い金属音が鳴る。

 子佑に向かって飛んできた矢は、すんでのところで勇豪ヨンハオの盾が弾いた。

「……子佑殿、怪我してないか」

「あ、あぁ。流石は棕熊ヒグマ*殿。あれ程の攻撃を防ぐとはな」

 勇豪を褒めた子佑の腕には、大人しく抱きかかえられた弓がいた。

 それをちらりと見た勇豪は、御者の浩源ハオヤンに「もう少し距離を取れ」と指示を出した。

 すかさず子佑が抗議する。

「護衛長、どういうことだ?それでは私が永祥殿を狙えなくなるではないか!」

 勇豪は面倒くさそうに答える。

「どうしたもこうしたも、この雨でお荷物を守りながら戦うのはごめんだッ…………あ」

 しまった、と慌てて口を噤んだが時すでに遅し。子佑の顔は怒りと羞恥ですっかり赤く染まっていた。

 一瞬にして気まずい空気が流れた。

 勇豪は浩源に目で助けを求めた。翻って浩源は、やれやれといった顔のまま黙々と馬車を操るのであった。


 雨で湿った子佑の唇が戦慄わななく。

「護衛長……お主、そんな風に私のことを思っていたのかッ!王になるはずだった、この私を!」

 勇豪は金切り声で非難される。するとそれを聞きつけた永祥が弓をつがえながら大声で話しかけてきた。

棕熊ヒグマ殿も大変だのぅ?戦場で子守をせにゃならんとは!」

 言い終えるや否や永祥は矢を放つ。

 一直線に子佑を狙ったそれを、再び勇豪がはたき落す。

 子佑が「ヒッ」と小さく悲鳴を上げた隣りで、勇豪はとあるものに気づいてにやりと笑みを浮かべた。

生憎あいにく、俺が手を離せなくても優秀な部下が何とかしてくれるもんでなッ!だろう?美琳メイリン!」

 その言葉を合図に永祥の馬車から御者が引き摺り下ろされる。彼の悲鳴は戦場の喧噪に飲ま込まれ、馬たちは手綱から解放されて逃げ惑う。

 車体は大きく揺れ、永祥がへりを掴んだ、その瞬間。

 彼の首目掛けて手戟てぼこが噛みついてきた。

 永祥は反射的に頭を大きく下げ、馬車の陰に隠れて難を逃れた。が、頭上すれすれを通った刃は彼の結髪けっぱつを持ち帰って行った。

 斬られた髪は舞い散り、ざんばら髪は顔の上を踊り、毛先から雨粒が弾け飛んだ。

 立ち上がった永祥は鋭い眼光で誰の仕業か探す。

 しかしどこを見回しても、立っているのは華奢な少女ただ一人だった。

 永祥は怒鳴る。

「女!神聖な戦に立ち入るとは何事か。く立ち去れ!」

 呼び掛けられた少女はその怒号を一笑に付す。

「たった今、斬られかけた相手に随分な物言いね?」

「何を抜かし……む?」


 よく見ると赤い着物姿の少女は手戟を握っていた。しかも鎧うてないにもかかわらず、彼女は悠然と永祥を見据えていた。

 更に目線を移して足元を見ると、死屍累々の惨状が広がっていた。その中には先程倒された御者も混じっている。

「これは、お主がやったのか?」

「ええ、そうよ」

 少女は誇らしげに首肯する。この残虐な行為を終えたばかりとは思えない程、年相応に無垢な顔で。

「は、はははははッ!」

 突然永祥ヨンシャンが笑い声を立てる。少女は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。

「女がここまでやるとはのぅ!面白い!女。名は何と言う」

「……さっきの聞いてなかったの?」

「あぁ。あれがお主の名だったか。では美琳メイリン……お主、我が国に来ぬか?」

「は?」

 美琳は急な申し出に呆れる。

「なんであなたのとこに行かなきゃならないの」

「そりゃ勿論、お主の実力に惚れたからよ。ここまでの猛者もさはそうおらんからな。あちらより優遇してやるぞ?我が国ではこんな雑兵の真似事などさせん。どうだ、考えてみぬか」

 そう言って永祥は手を差し出す。

 その手を美琳は「嫌よ」の一言で一蹴した。

「……何故だ?何が不満だ」

「ただ単に興味がないからよ。で?無駄話はこれで終わったかしら?」


 美琳は雨に濡れたほつれ髪を耳に掛けると、手戟てぼこを握り直す。

 永祥は鼻で笑う。

「ふっ、律義な者よ。そこもまた気に入った……が。手に入らぬ上等な芽は早めに摘み取らんとな!」

 永祥は目にも留まらぬ速さで弓を射る。と同時に、仕留めた、と確信した。

 それを裏付けるように、矢の勢いで後ろに吹き飛んだ少女の胸元には直角に矢が突き立っていた。だのに。

 少女は胸の矢を抜きゆらりと立ち上がると、眉一つ動かすことなく手戟を構えた。それは間違いなく武器を振るう前の予備動作だった。

 永祥は何が起きたか分からなかった。ただ第六感が警報をかき鳴らしていた。

「くッ!」

 永祥は素早く距離を取りながら、自軍の様子をざっと見回す。

 すでに劣勢な気配は濃厚だったが、もはや挽回の余地など微塵みじんも残っていなかった。

(……ッ万事休すか)

 雨以外の冷えた雫を滴らせた永祥は大声で自軍に叫ぶ。

「全軍!退却ッ!」




 司令官の天の声に、敵兵たちは喜び勇んで撤退していった。

 逃げる兵は追わない。戦場での不文律だ。

 ボロボロな上に泥だらけになった兵士たちは勝利の歓声を上げた。

「やりましたな、子佑ジヨウ殿」

 勇豪ヨンハオは遠く離れた美琳メイリンを見やりながら子佑に話しかける。

 だが勝ち軍の指揮官であるはずの子佑の顔は真っ青に血の気が失せていた。

は……何なのだ?」

 胸に矢を穿うがたれたはずの少女は、先刻と毛ほども変わらぬ姿で逃げる敵兵を眺めている。

 それは遠目からでも一目瞭然で、あまりにも面妖な光景だった。

 ついさっきまで険悪な空気だったとは思えない様相で勇豪は子佑に尋ねられる。

「あれは……何て言やいいのかね?」

「……美琳さんはこの国には欠かせない人になると思いますよ」

 言い淀む勇豪の言葉を引き継いだのは浩源ハオヤンだった。

「あんな……化け物がか?」

 子佑は震える指で、かの少女を指す。

「化け物だからこそ、利用し甲斐があるというものでしょう?」

 浩源はにっこりと笑う。彼の瞳に光がないのは曇り空だからだろうか。

「そう、か?それもそうなのか?」

 子佑は逡巡する。

「……うむ。ひとまずはこの勝利を祝おうではないか」

 子佑は考えることを放棄した。

 雨水を吸って重たくなった着物と、元より重い体を動かして馬車を降りると、後方に張っていた天幕に戻っていった。

 彼の頭にはもはや勇豪の失言はなかった。


「美琳さんには助けられましたね、護衛長?」

 浩源はびしょ濡れになった髪を解いて軽く絞りながら勇豪に話しかける。

「ったくお前はいつも一言余計なんだよ……まぁ間違っちゃいねぇけど」

 勇豪は眉間に皺を寄せながらもほっとした顔つきだ。

 浩源はくすくすと笑う。

「貴方のそういう素直なところは嫌いじゃないですよ」

 勇豪は浩源を一睨みすると、乱れた前髪をき上げて歓声に沸く兵らを見回す。

「お前ら!さっさと引き揚げるぞ!折角勝ったのに雨でやられたらたまったもんじゃねぇからな!」

 兵士たちは号令を聞くと、慌てて木陰を求めて走り去っていった。

 二人もその後を追って平原に背を向けた。







 段々と静かになっていく平原とは打って変わって、乱れ髪のその男の瞳は爛々らんらんと燃え盛っていた。

 永祥ヨンシャンはぶつぶつと独り言を呟きながら森の中を一心不乱に歩いていた。

「あの娘。何としても手に入れねば……あやつがいれば我が国は盤石となり、どこよりも強い国になる。この負けを、帳消しにする程にッ!」

 ぎり、と男は歯を唇に突き立てる。

 咲けた唇からは真っ赤な血が雨水の滴に混ざり滴った。

「儂は絶対に諦めぬぞ……何年掛かろうとも、どれ程の犠牲を払おうとも、絶対に!」

 歴戦の猛者もさとして名を馳せていた永祥にとって、たかが一人の少女に気圧されるなどあってはならぬことだった。たとえ異なる次元のものであろうとも。

 生まれて初めての屈辱と執着を胸に抱きながら、永祥は敗戦の帰路につくのであった。










 *棕熊ヒグマ勇豪ヨンハオの異名。

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