第8話

 肉を貫く鈍い音がした。


 文生ウェンシェンは目の前の光景が信じられなかった。

 目の前では勇豪ヨンハオが剣を振り下ろしたまま固まっている。かと言って老婆がそれに裂かれている訳ではなかった。代わりに、跪いている美琳メイリンの腹に剣が割って入っていた。

 さぁっと青ざめた文生は美琳の腹に手を伸ばす。さぞ血が溢れかえっているだろうと傷口に触れたが、文生の手が赤く染まることはなかった。

 文生は異変を感じると手を離し、瞠目しながら彼女を見つめた。


 美琳は眉を八の字に描いていたが、痛みによるものではないことが伺えた。

 彼女は剣身を掴むと引き抜こうと動かす。だが力の弱い彼女一人では上手くいく訳がなかった。

 美琳は意を決した顔をすると、剣が通った道を逆戻りさせる。

 カランと床に転がされた剣には血が付いていない。

 着物は横一文字に裂け、美琳の腹からは内臓が赤く覗いていた。しかしよく見ると、皮膚が独りでに蠢いて内臓を覆い隠していく。

 数分もすると傷一つない白い肌があるばかりであった。




 三人は美琳の顔と治った腹を交互に見る。誰も今目の前で起きたことが信じられず、先程までの緊迫した空気を忘れる程だった。

 皆押し黙っている中、初めに声を出したのは文生だった。

「美琳……一体君は……?今のは、何が起きたの?」

 美琳は気まずそうに顔を逸らしながら、三人に話す。

は、あたしにもよく分からないの。ただ昔からこうだったとしか…………きっと反応になると思ってたから隠してた……それだけよ」

「それだけって……君がそんな体だったなんて……」


 文生は異常な物を見てしまった顔をする。それに美琳は顔を曇らせる。

「……黙っててごめんなさい。皆が気味悪がるのは分かるわ。でも……あたしは、あたし。文生を好きなあたしは永遠に変わらないの。だから……文生だけはそんな目で見ないで」

 文生は美琳の瞳の奥底に深い哀しみが揺らいだのを見つけ、自分の裏切りを自覚する。

 彼女の言う通り、どんな体であろうとも今まで共に過ごしてきた彼女がいなくなる訳ではない。これからの人生を添い遂げようと約束した彼女がいなくなったのではないのだ。

「美琳……ごめんよ。そうだよね、君が君であることは変わらないんだもんね」

「!ありがとう、文生」

 そう言って美琳は文生に抱きつく。文生が恐る恐る抱き返すと、そこにはいつもと変わらない温もりがあった。

 文生が安堵の吐息を漏らしていると、美琳が素早く耳元で囁く。

「あたしが今からする話に合わせてちょうだい」

「え……?」



 吹っ切れた笑顔を浮かべた美琳は、文生から体を放して強い眼差しで勇豪を見上げる。

「勇豪さん」

 呆けていた勇豪は、急に名指しされてあぁとも、うむとも言えない声を出す。

「婆様と貴方がどんな約束を交わしてたか知らないけど……本当に殺すしかないの?」

「そりゃ……そうさ。王は誰よりも高潔で民の見本にならなければいけない。親殺しを見過ごすようじゃ、教え*に背く。お前だってそんな奴が治めている国に居たいか?」


 美琳は苦虫を噛み潰したような顔で勇豪を睨み付ける。

「……じゃああたしは今、親殺しを見逃す親不孝者にされようってことね」

「ッ?!は?え、つまり、お前はこいつの娘ってことか?そんな馬鹿な……こいつにお前みたいな若い娘がいる訳ない!」

「そうね、普通ならそう。でもさっき見た通り……あたしは

 勇豪は息を飲む。一方、文生は彼女のハッタリに口が塞がらなくなる。

「文生様、それは本当なのか?」

 勇豪の問いかけに、文生は動揺しながらも頷いてから、チラリと老婆を覗き見る。それにつられた勇豪も老婆に注目する。




 全員の視線が老婆に移ったとき、老婆は一人別のことを考えていた。

 そう、あれは数年前。美琳と初めて会った時の記憶をぶわっと思い出していた。まるで封を切られたように。

(なぜ、忘れていたんじゃ?この子は、儂のおっ母にそっくりなのに。おっ母と瓜二つの妹にそっくりなのに。もちろん、娘なんかじゃない。それどころかこの子は……!)

 老婆は否定の言葉を紡ごうとしたが、美琳の人差し指がそれを阻む。

 美琳が老婆の顔を覗き込むと、瞳から黄金のがたゆたう。


 老婆はまばゆくて儚げなそれに釘付けになる。

 一瞬だろうか、永遠だろうか。美琳と過ごした日々が頭を駆け巡る。

 美琳と文生が婚約したとき、美琳が初めて言葉を話したとき、美琳を




 ……儂は何を考えていた……?そう、そうだ。この子はずっとと過ごしてくれた孝行娘じゃないか。このに不道徳なんて烙印を押させてはいけないじゃないか。

 老婆はチカチカする目を瞬きながら、勇豪ヨンハオに懇願する。

「儂は老い先短い身、死ぬのは構いやしません……でも、この娘を不孝者にしたくない。どうか死んだものとしてくれないでしょうか?」


 勇豪は信じられないという顔で老婆を見つめる。しかし先程の彼女の体を見ると、嘘ではないように思える。

 動揺したまま勇豪は返事をする。

「だが……お前がこのまま村に居ればいつか知れてしまう」

 すかさず美琳が目にを宿して、する。

「あたしにいい案があるわ」





 *教え……国に脈々と受け継がれている倫理観のこと。

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