第3話
霧雨が止んだ頃、少年は右手に山菜を入れたざるを持ち、左手で少女の手を引き森を抜ける。
少女たちの眼前には緑に染まった田園と、
少女は初めて見る景色に目を輝かせ、繋いだ手をブンブンとゆする。少年はこそばゆそうにしながら、彼女に話す。
「ここが俺の村だ。ほら、まずは婆様に挨拶するぞ」
そう言って少年は一軒の家へ向かっていく。
少し崩れた土壁と苔が生え始めた藁葺き屋根の家に近づくと、一枚布で覆われた入口が見えた。少年は少女を入口の外に立たせておくと、一人中に入る。
室内は外より一段下がっており、地面が剥き出しの床の上にはボロボロの麻布が敷かれている。仕切りがないその部屋には一人の老婆が座っていた。
「おや
「ただいま婆様。ちょうど森の中にいた時だからあまり濡れなかったよ。山菜もたくさん採らせてもらったし。それで、えっと……着物を着てないのには訳があるんだ」
「おやまぁ。どうしたんだい?」
「実は、泉の近くで変なやつに遭って……。そいつ着物着てなかったから着させたんだ。あと……困ってたみたいだから連れて来た」
家に入った少女は中をきょろきょろと見回し、老婆を見つけるとひどく驚いた顔をする。老婆もまた少女の容姿に衝撃が走り、表情を強張らせる。
(この子……どこかおっ母の面影がある?でもまさか……
思案していた老婆は、ふいに自分の顔が冷たいものに触られていることに気づく。
いつの間に近づいていたのか、目前に迫った少女は老婆のしわくちゃな額、鼻、頰、と順に手で辿る。少女は不思議そうな顔で一通り触り終えると、今度は彼女自身の顔をペタペタと触る。
難しい問題を考えているような少女だったが、突然ぱぁっと顔を綻ばせる。そして老婆の両手を掴み嬉しそうに振り回す。
「おや、まぁまぁ、すっかり冷えちゃって。それにこんなに綺麗な顔なのに男物じゃ可哀想ね。古着があったと思うからそれに着替えてもらうかね。
「分かった。頼んだよ婆様」
二人きりになると、老婆は少女の手を離して部屋の隅に向かい、籠を探ると女物の着物を取り出す。それは少し色褪せほつれもあったが、元は美しい反物だったことが見て取れた。
「お嬢ちゃん、こっちおいで」
老婆が手招きをするが、少女はただぼうっと見つめ返すだけだった。
「うーむ、もしや……。仕方ない、なんとかするしかないかの」
老婆は重そうな腰を上げて少女の元へ戻る。きょとんとしたまま座っていた少女を立たせると、羽織っていただけの少年の着物を脱がせる。
老婆は少女の裸体を見て、眩しそうに目を細める。天女のように美しく瑞々しい彼女の体は、シミがないのはもちろん、傷や垢一つなく新雪のような輝きを放っていた。
老婆にとってはもはや遠い過去となった若い体は一種の神々しさがあり、自分の皺だらけの手で触れるのが躊躇われた。
だが、少女の無垢であどけない笑顔は赤ん坊のように老婆を信頼しきっているようだった。老婆は一つため息をつくと、青い着物を広げてみせる。
「まだ分かんないかもしれないけど、一応教えとくかね。着物はこうやって……肩に羽織って袖、あー……この穴に腕を通すんだよ。そうそう、上手上手。で、右手……こっちの手が入れられるように前を重ねる。逆はダメだからね。重ねたら帯、そうそうこれだよ。これを腹に巻いて結ぶ。後は袴を着るんだが、
老婆は優しく手ほどきをしながら少女に着物を着せ終えると、脱がせた少年の着物を持って外に出る。
外は日が傾き稲が朱く染まり、野良仕事を終えた人々に夜の来訪を告げていた。老婆は寒そうに立っていた少年に着物を手渡す。
「
「ありがとう婆様」
そそくさと着替え始めた
「……あんた、一体あの子をどこで拾ったんだい?」
「拾ったってそんな……あの子さ、
「そうかい、地祇様の森で……」
「ほら、いつも婆様が言ってるんじゃん。困ってる人がいたら助けなさい、って。それにあいつ、にこにこ笑ってるけどさ、なんかこう、寂しそうに見えて……なぁ婆様、あの子をしばらく世話してやろうよ」
「……」
老婆は
「……む?いや、大丈夫じゃよ。あの子を引き取るのはいいんじゃ。考えていたのは他のことでな。しばらく飯は減るだろうが、我慢出来るじゃろ?」
そう告げた老婆は優しく文生の頭を撫でる。ぱぁっと顔を明るくした文生は、家の中に駆けていった。
一人夕暮れの中に佇み続けていた老婆は、少女のことを思案し続ける。
(あの子、なぜだか
そこまで考えていた老婆は、ぶるりと体を震わす。
(儂はなんとか逃れてこの村に世話になったが、村は全滅だった。あれはきっと捨子に地祇様がお怒りになったからで、妹も無事で済まなかったはず、なのに……なぜあんなにもそっくりな子が…?)
青ざめた顔で考え込んでいた老婆の目の前に、ふと、一匹の蛍が横切る。老婆はその季節外れの蛍にしばし目を釘付けにされる。
蛍はふわふわと老婆の眼前で漂う。老婆の目には蛍の光しか映らない。怪しく光る蛍は、老婆を
つと、蛍が離れて森へ帰っていく。ハッと気がついた老婆は、はて?と思う。
(儂は何を考えておったのかの?)
老婆は眉を八の字にしていたが、家の中から
「はいはい、今行くからの」
返事をしながら老婆は夜闇に包まれた家の中へ入っていった。
満天の星空の中、さわさわと森が囁いている。森の奥深くの祠の傍には、膝を抱えて座っている
蛍は光の周りを褒めてほしそうに飛び回る。光は人差し指に蛍を止まらせて、よしよしと撫でてやる。
光は空を見上げるような仕草をする。木々に覆われた空では星はかすかにしか見えない。光は心細そうに点滅する。
光の点滅に合わせて森が揺れ動いたが、闇がそれを覆い隠してしまった。
夜はまだ、明けそうにない。
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