第40話 ただいま……?

 夕方。パチリと玄関の壁のスイッチを押すと蛍光灯が白い光を放って、見慣れたその部屋を映し出す。


「か、帰って……来ちゃった……」


 いつもの、私の部屋の光景がそこにはあった。

 今朝は念入りに掃除をして出てきたから、気持ちいつもよりも綺麗に片付いて見えていたけれど、それ以外に変わりはない。

 しかしほのかちゃんが家で待っていない帰宅は久しぶりで、それは少し、いやかなり寂しかった。


(こ、これから、どうしよう……)


 ――帝京警察署の取調室での会話のあと、私はすぐに解放されてしまった。

 垣内刑事と捜査のために必要となる今後のやり取りの方針を決めて、「それじゃあ今日はお開きです」と言われて、それだけだった。

 警察署の自動ドアを行きとは反対に抜け出たあと、私は少しの間立ち呆けてしまった。

 まさか何の制約もなく再び外に出れるとは思っていなかったから戸惑ったのだ。

 でもそれも少しの間。我に返った私は、それから帝京駅前へと向かった。小手町側の出口まで行くと周囲をくまなく見て回ろうと思ったのだ。

 果たして垣内刑事の言った通り、私が日曜日に足を休めたベンチのある休憩場所はどこにも無かった。どうしても、あの日見た光景に重なる場所が見つかることはなかった。


(わ、私はあの日、いったい何を見て……い、いったい、何と話したのだろう……)


 帝京駅前の静寂とはかけ離れた雑多な様子が、私のその疑問に答えてくれることはなかった。

 突然、ピンポーン、と軽快なインターホンの音が鳴る。

 玄関に突っ立ったまま部屋を眺めてボーっとしていた私は、振り向いて、そのまま躊躇なくドアを押し開けた。


「あっ、お姉さん。こんばんは」


 部屋の前に立っていたのは予想していた通り、あかりちゃんその人だった。

 私が警察に捕まればもう2度と会うことができないだろうと考えていたその姿を見て、私の心に去来したのは不思議な気持ちだった。

 それは安堵のような、はたまた胸を締め付ける様な苦しさ。ずっとそばに居たいと願った人に再会できた喜びと、結局1つの罪だって償うことができずにノコノコと舞い戻った罪悪感の混ざったごちゃごちゃの気分だ。


「お姉さん、もう体調は大丈夫ですか? 熱はもうちゃんと下がってますか?」

「あ、う、うん……も、もう大丈夫……」

「そうですか! それならよかった……」


 あかりちゃんの優しさが変わらず私の心へと温もりを運んでくれる。傷つき、血を流し続けて冷たくなった私の心を、柔らかな毛布で包み込んでくれるような温かさだ。

 今日はとても疲れたから、微睡まどろむように少しだけ、その優しさに身を委ねたい。

 そう思った時だった。


「そういえば、ほのかちゃんはもう帰ってきてますか?」

「……!」


 押し開けていたドアから部屋を覗き込むようなあかりちゃんの仕草に、私もまた思わず部屋を振り返る。

 そこにあったのは、空っぽの部屋だ。

 

『このは、おかえり!』

『おなか空いた……早くごはんにしようよー』

『このは、おやすみ!』

『このは、おはよう!』

『このは、いってらっしゃい!』


 元気で明るく、無邪気で愛おしい声が、空虚にリフレインする。

 一緒に暮らして3か月あまり、その光景はすっかりこの部屋に染み付いてしまっていた。


「まだ帰ってきていないみたいですね……実は今朝、めずらしく駅前の公園に1人でいるところを見かけたんですけど、何かありましたか……?」

「う、うん……は、話すとちょっと、長くなるかも、なんだ……」

「……そうなんですか」


 あかりちゃんはそう言って微笑んで私を見る。

 深く詮索しない優しさが、彼女らしい。

 でも、


「で、でも……あかりちゃんには、聞いてほしい……」


 私は言葉を続ける。

 

「き、きっと私のことを、け、軽蔑してしまうと思う。き、汚い人間だって、思うかもしれない。そ、それでもあかりちゃんには知っていてほしいの。わ、私の罪を、私という人間を……」


 もう、誤魔化すわけにはいかなかった。

 

『赦されないんです、一生。誰にもあなたの罪を証明できないから、誰にもあなたの罪を裁くことができないから。あなたは罪の十字架をその背に乗せて、そうして生きていく他ないんですよ』

 

 垣内刑事の言葉がよみがえる。

 そう、私は赦されない。

 そしてなにより、私が『自分自身』を赦してはいけないのだ。

 垣内刑事に宣告されてわかったのだ。

 赦されたいなんて、本当におこがましい願いだった。

 私は苦しみながら、それでも前を向いて生きるのだ。自らの罪から決して目を背けることなく。もう2度と同じあやまちを繰り返さないために。だからこその告白だった。

 あかりちゃんは私の言葉を正面から受け止めると、「お姉さん」とそう言って、両手で私の手を取った。


「軽蔑なんて、するわけないじゃないですか」


 私の手を包み込むように握って、そしてあかりちゃんは言葉を続ける。


「たとえお姉さんがどんなことをしていたとしても、私がこれまで見てきたお姉さんは優しくて思いやり深い、素晴らしい人間であるお姉さんです。それが変わることは、決してありませんよ。決して」


 その優しさは、私の心身が溶かしていくように温かなものだった。


「――ありがとう、あかりちゃん……」


 私の顔を見たあかりちゃんの目が見開く。「お姉さん、今……」と言って、息を呑んだ。


「……ご、ごめんね、あかりちゃん。わ、私、ほのかちゃんを迎えに行かないと」

「えっ? あっ……はい! そうですよね、もう暗くなってきていますから。私も一緒に行きましょうか?」


 あかりちゃんの提案に、私は首を横に振る。


「だ、大丈夫……。こ、この時間なら、多分、居る場所を知っているから……」


 私はそう言いつつ、バッグだけ肩から降ろして玄関先に置くと、部屋から出てドアに鍵をかけた。


「わかりました。それじゃあ気を付けて、いってらっしゃい」

「う、うん……ありがとう。は、話の続きは、帰ってきてから、するね……?」

「はい。お待ちしてます」


 あかりちゃんからのその答えを聞くと、私は小走りにマンションの廊下を行き、階段を駆け下りた。

 そして夕日が赤く照らす道を、あの場所へと走っていく。


(き、きっとそこにいるよね……!)


 私とほのかちゃんが出会い、言葉を交わして、そして家族となった、あの公園に。

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