第39話 消せない罪

「――え?」

「だからね、ベンチ、無いんです。ムラサキさん、あなたが休んでいたその場所っていったいどこにあるんでしょうかねぇ……」


 そんな馬鹿な、と思う。

 じゃあ本当に、私が腰を落ち着けて休憩していたあの場所はいったい……何だというのだろうか。

 自分の記憶を疑ってみる。しかし、私の頭の中ではその休憩場所も、そこで私に話しかけた白いコートのおばあさんも、赤いコートを着た巾着型バッグの持ち主の女性もハッキリと思い出すことができた。


「あ、ちなみに私はね、嘘を吐いてるんじゃないかってムラサキさんを疑っているわけではありませんよぉ?」


 垣内刑事は言葉を続ける。


「また別の駅での出来事と帝京駅での出来事をごっちゃにしてるんじゃないか、とも思っていません。先ほど地図を2人で見合わせた感じ、戸惑いなく帝京駅前からご自身でバッグを遺棄した場所までのルートを指し示せていましたからねぇ」

「そ、そ、それじゃあ……」


 いったい、なんだというのだろうか。

 私がその言葉を紡ぐところに先んじて、垣内刑事が「警察がこんな話をするのもなんですがねぇ」と話し始める。


「『狐につままれる』……あんまり若者向きの言葉じゃないですかねぇ……? 通じます? 『化かされる』の方がわかりやすいかなぁ?」

「は、はぁ……」

「この辺り、アスファルトで地面が固められて高い建物が建つようになる以前は単なる土手だったんですよねぇ……私が子供の頃には大分整備もされていましたが、私の婆さんがまだ若い頃は冬になるとそこから富士のお山が望めたそうですよ。今じゃ考えられないでしょう?」


 垣内刑事は昔を懐かしむような目をして、愉快そうに口元を緩めながら続ける。


「ウチの婆さんも同じようにこの辺りで化かされたことがあるそうなんです。一緒に土手を歩く度に話してくれちゃうものですから、私もこの年になるまで耳から離れなくてねぇ……。『アイツらは弱った心の隙間に入ってくるんだ』って、話の最後の締めくくりにはいつもそう言っていましたよ」

「よ、弱った心の……隙間……」

「ええ……。もしかするとムラサキさんも無意識のうちに、これまでの『おこない』は仕方のないものだって自分に言い聞かせるのに疲れちゃってたのかもしれないですねぇ……」


 そんなことが果たして本当にあるのだろうか。

 とてもオカルトじみた話で、正直上手く呑み込むことはできそうにない。


「…………」

 

 俯きながら、しかし、心が弱っていたというのは事実かもしれないと、そう思った。

 日々、ひとつひとつ悪いことを重ねていく中で、私はその度に自分を正当化してはいなかっただろうか。

 自分に無理やり押し付けた免罪符が紙やすりのように、私の心を少しずつ削り取っていたのではないだろうか。

 傷だらけになった目には見えないその心がとうとう悲鳴を上げて、高熱という形で私に限界を教えたのかもしれなかった。


「なっはっはっは、別に信じろと言いたいわけじゃありませんよぉ? でもね、さっきも言ったようにそういったケースは稀にあるんです。人から聞いたものもありますし、私自身が体験したものもあります」

「も、もし、本当に『化かされて』、こんなことになったのだとしたら……わ、私は、どうなるんですか……?」

「これも先ほど言った通りです。犯行を立件できませんから、私たちにあなたが背負う罪を裁くこともできません。つまり我々は自首を受け入れることはできず、あなたは日々の暮らしへと戻る、それだけです」

「わ、私に……よ、余罪があってもですか……? こ、この半年で、私、数え切れないほどの人たちから、お、お金を盗んで……。も、もしかしたら今回みたいに、ひ、他人ひとの人生に関わるような、大きな罪を犯したかもしれないんです……」

「ふむぅ……被害届が出されていたり、物的な証拠があれば捜査は可能ですがねぇ……ありますか?」

「そ、それは……」


 普段から盗みという行為そのものが発覚しないよう、お財布の中身の一部をスるようにしてきた私に物的な証拠は残っていないし、また被害届が出されているとも思えず、私は口を噤むしかなかった。


「情けないことですがねぇ、警察は事件が起こらないことには本格的に動けないんですよ。将来に向けての予防的調査は可能ですが、被害者に被害の自覚が無い、全く発覚していない過去の事件の調査は難しいです」

「そ、そ、それじゃあ、私は……」

「……ええ。罰を受けて償って、そして赦されたくてここまでやってきたムラサキさんには酷な話ですが、あなたは社会的に正しい手段で裁かれることはできない。そういうことです」


 垣内刑事は指を組んで腕を机に載せて、身を乗り出す。

 そして私を地の底に縫い付けるような力強い瞳で覗き込むようにして、


「赦されないんです、一生。誰にもあなたの罪を証明できないから、誰にもあなたの罪を裁くことができないから。あなたは罪の十字架をその背に乗せて、そうして生きていく他ないんですよ」


 一直線に私を見て、そう言った。

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