第38話 ベンチ

「て、て、『帝京駅置き引き事件』の、担当……?」

「ええ。まぁ、担当は私だけじゃないんですけどね? この前の日曜日の置き引き事件は全国ニュースになっていますから一応所轄内のみで捜査本部が設置されていまして、私はその一員ってわけですよ」

「え、え……え……!?」

「混乱しているみたいですねぇ、いや、無理もないです。ちょっと悪いことをしてしまいましたねぇ……」


 垣内刑事は警察手帳を胸ポケットへと仕舞うと、「それじゃあ、順を追って説明しましょう」と言葉を続けた。


「まずね、ムラサキさん。今回『帝京駅置き引き事件』の被害として届け出られたのは、『帝京駅九重川このえがわ』出口のバスターミナル付近で起こった置き引き事件なんですよ。あなたの仰った『帝京駅小手町』出口で起こった事件じゃあない」

「こ、『九重川このえがわ』出口……?」


 帝京駅にはいくつもの大きな出口が存在するのだが、確かその名前は私が事件を起こした小手町出口とは正反対にある出口だった。

 ということは、つまり、


「わ、わ、私が起こした事件じゃ、ない……ニ、ニュースで流れていた、置き引き事件は、わ、私が起こした事件とは違う事件……?」

「なっはっはっは……そういうことです。ちなみに置き引きされたバッグの色・形に関しても、ムラサキさんの仰ったものと今回の『帝京駅置き引き事件』で盗られたバッグとは不一致なんですよ」


 唖然とする。同じ日に同じ駅で、そんな偶然があるなんて信じられなかった。

 しかし、垣内刑事は「あとね……?」とコソコソ話でもするかのように机越しに身を乗り出して顔を寄せる。

 

「あなたがやったと言っている置き引きについてですがねぇ、ソレ多分、被害届出されてないんじゃないかなぁ」

「……え、え?」

「この前の日曜日に帝京駅で重大な置き引き事件が起こったわけでしょう? それと同日に起こった置き引き事件だったとしたら、関連性があると疑われて私たちの方まで話が回ってきているはずなんですがねぇ、そんな話、今ムラサキさんから直接聞くまで知りもしませんでしたよ」


 被害届が出されていない……? そんな、バカな。

 バッグを置き忘れた女性は、すぐに取りに戻ってきたはずだ。

 それにも関わらずすでにベンチからバッグが消えていたのだとしたら、普通は誰かに持ち去られたのだと心配になるだろう。


「私たちがムラサキさんを『犯罪者』として扱えない理由もそこにあるんです」と、垣内刑事は言葉を続けた。


「つまり、事件が発覚する余地がないと思うんですよねぇ……。もちろん、ムラサキさんによる自首という行為がありましたから再度調べ直させてはいただくんですが……。コレ、私の勘からすると事件にならない気がするんだよなぁ……。ムラサキさん、置き引きしたバッグを遊歩道に捨てたって仰っていましたっけ?」

「は、はい……」

「だとすると、被害届なし、置き引きの物的証拠なしってことですもんねぇ。あ、一応どこの遊歩道に捨てたか、覚えてる限りの情報をいただけますかぁ? 時間も経っていることだし同じ場所に落ちているとは思えませんが、そちらも調べさせますんで」


 私は走って逃げていたその時の記憶が少しあいまいだったものの、垣内刑事が持ってきてくれた紙の都市地図を頼りにして、だいたいこの辺りだという付近に当たりをつけて話した。

 垣内刑事はその地点をメモして取調室から半分身体を出すと、若い刑事を呼びつけてバッグが落ちていないかを確認するように指示を出す。

 

「あー……そういうわけでしてね、ムラサキさん。少なくとも今日中の逮捕はまずありません」


 垣内刑事は再び私の体面へと座るとそう言った。


「捜査の進展によっては再びこちらにお越しいただくことになると思うんですが……しかしね、多分何も出てこないと思いますよ」

「な、何も……出てこない……?」

「えぇ。少なくとも私は、そうにらんでます」


 垣内刑事はパイプ椅子の背もたれに身体を預けると、おかしそうに口元を緩めた。

 

「たま~にですがねぇ、長年刑事を務めていると、不思議なことに『こういうこと』があるもんなんです」

「こ、こういうこと……って、な、なんですか……?」

「どれだけ調べても尻尾の掴めない事件、っていうんですかねぇ……。『やった』って言う人だけはいるんですけど、しかし被害者もいなければ証拠もない、まさに今のムラサキさんが体験しているようなケースですよ」


 垣内刑事は手元の、これまでの質問に対して私のした返答をメモしていた手帳を開いた。


「ムラサキさん、ベンチに忘れられたバッグを置き引きしたと仰っていますよねぇ?」

「は、はい……」

「帝京駅小手町側の出口の近くで?」

「そ、そうです……」

「ムラサキさん、私はこの年になってからも管轄内を結構警邏けいらしてるんですよぉ。だからねぇ、わかるんです」


 垣内刑事はそこで言葉を区切ると、ひとつ息を吐き、そして続けた。


「――小手町側出口にはね、そもそも、駅前に設置されたベンチなんて無いんですよ」

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